川路聖謨終焉の地、三年坂

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川路聖謨
[川路 聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期(幕末)の旗本。日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男、母は日田代官所手付の高橋誠種の娘。は敬斎。幼名は弥吉。弟に井上清直、母方の従弟に江戸幕府最後の西国筋郡代窪田鎮勝がいる。
享和元年(1801年)、豊後国(大分県)日田に生まれる。文化9年(1812年)、12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となる。翌年元服して萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。その後、勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏からスタートし、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となる。その後、寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所に出向。この時仙石騒動を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格、その後、佐渡奉行を経て、老中水野忠邦時代の小普請奉行普請奉行として改革に参与した(この頃、名を萬福から聖謨に改む)。水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷されている。その後、大坂東町奉行をへて、嘉永5年(1852年)・公事方勘定奉行に就任。翌嘉永6年(1853年)、阿部正弘海岸防禦御用掛に任じられ、マシュー・ペリー艦隊来航に際し開国を唱える。また同年、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉を大目付槍奉行筒井政憲、勘定吟味役村垣範正下田奉行伊沢政義、儒者古賀謹一郎と共に担当し、安政元年(1854年)に下田で日露和親条約に調印。安政5年(1858年)には堀田正睦に同行して上洛、朝廷に日米修好通商条約の承認を得ようとするが失敗、江戸へ戻った(条約は弟の井上清直と岩瀬忠震が朝廷の承認が無いままタウンゼント・ハリスと調印)。井伊直弼大老に就任すると一橋派の排除に伴い西丸留守居役に左遷され、更に翌年の8月27日にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。(このころの屋敷は小石川にあった。川路聖謨屋敷跡)文久3年(1863年)に勘定奉行格外国奉行に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満があったようで、病気を理由として僅か4ヶ月で役を辞する。引退後は、中風による半身不随や弟の井上清直の死など不幸が続いた。慶応4年(1868年)、割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。享年68。忌日の3月15日は新政府軍による江戸総攻撃の予定日であった。  (wikipedia-川路聖謨より)]

関連リンク – 「川路聖謨 の施政

三年坂〔さんねんざか〕
[五番町10番地と12番地の間を外堀の土手の方へ下る坂です。『新撰東京名所図会』に「三年坂は現今通称する所なるも、三念寺坂といふを正しとす。むかし三念寺といへる寺地なりしに因り此名あり。」とあります。  (「千代田区観光協会-千代田の坂-三年坂」より)]

川路聖謨紹介サイトリンク – 「川路聖謨のこと

資料リンク
東京都立図書館アーカイブ – 安政再版東都番町大絵図(嘉永3[1850]/安政5[1858]再刻/元治元[1864]改正)」[絵図中下に三年坂が記述されている。三年坂北西方向・川路太郎(川路太郎は川路聖謨の孫)との記述場所が川路聖謨終焉の地です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 三」(コマ番号184/186・当時之形地図左上、川路太郎と記述されています。)

カメラ北方向が三年坂で、坂右に三年坂の標柱があります。また、カメラ西北西方向が川路聖謨終焉の地です。

川路太郎(寛堂)
[弘化2年(1845年)12月21日、江戸麹町区富士見町で生まれ、本名は太郎、は温、号は寛堂。父は川路彰常(かわじ・あきつね)。祖父・川路聖謨(かわじ・としあきら)は、幕末勘定奉行外国奉行として、多くの難問題を処理し、阿部正弘にも深い信頼を得ていた。
 3歳の時、父川路彰常が没し、以後祖父聖謨の庇護の下に成長した。しかもその祖父も将軍継嗣問題から安政の大獄の累を蒙り、安政6年(1859年)8月免職・隠居・慎を命ぜられたため、安政6年(1859年)8月、14歳の若さで家督を継いだ。その間、箕作阮甫中浜万次郎らに学び、さらに蕃書調所に勤め、勉学に励んだ。
 文久3年(1863年)正月小納戸となり、同年末の将軍上洛に従い、京都で佐久間象山にも会った。元治元年(1864年)6月小納戸を罷めて勤仕並寄合となったが、慶応2年(1866年)栗本貞太郎らとともに横浜仏語伝習所の第一期生となり、カションについて勉学に励んだ。慶応2年(1866年)8月「歩兵頭並」となる。
 慶応2年(1866年)の秋、幕府は幕臣80名の中から14名を選んで、英国に留学させることにした。この時23歳の川路太郎は、儒者中村敬宇とともに取り締まりを命ぜられ、10月横浜を出帆し、同慶応2年末ロンドンに到着した。一般の留学生はユニバシティ・カレッジスクール中学に入学したが、彼のみは特別に英国ロンドンで、文学士モルトベイ氏の個人教授を受け、慶応3年(1867年)正月から、明治元年6月まで、海軍術・英文学などを学んだ。
 慶応4年(1868年)3月15日、幕府瓦解に際して祖父聖謨は江戸開城の風説を信じてピストル自殺し故家は倒産の状態にあった。慶応4年(1868年)6月25日、寛堂は横浜に着き、わが家に到着した時には聖謨はこの世の人ではなかった。  (「誠之館人物誌 「川路寛堂(川路太郎)」 誠之館教師」より)]

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