成瀬隼人正屋敷跡

マーカーは成瀬隼人正屋敷跡です。

成瀬隼人正屋敷跡
[麹町の心法寺の脇道は、かつては成瀬横丁と呼ばれていた。この一帯は成瀬隼人正の上屋敷だったからである。成瀬隼人正は、代々尾張徳川家御附家老職で犬山藩主として知られる。付家老(つけがろう)とは大名級の徳川譜代の家臣を徳川御三家だけに家老として配したもの。幕末最後の年に付家老すべてが滑り込みで幕府ではなく朝命により大名に列せられた。最後の藩主成瀬正肥は新政府でも高官に任ぜられ、当初の男爵から子爵に昇進した。その末裔の成瀬正勝(1906-73)は東大教授で近代文学の研究家。その明治以降の膨大な文学書コレクションは戦災ですべて焼失したが、戦後再び約2万册を収集し直し、現在は博物館明治村の「旧名古屋衛戍病院」の中に「成瀬正勝文庫」として収蔵されている。  (「麹町界隈 わがまち人物館-成瀬隼人正屋敷跡」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図」[絵図右下・四谷御門左上に成瀬隼人正屋敷がある。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 三」(コマ番号176/186~180/186、182/186、184/186地図中下に成瀬隼人正と記述されています。)

カメラ北方向の一画(六番町11・13・15番地 麹町六丁目6番地)が成瀬隼人正屋敷跡です。

成瀬正成
[成瀬 正成(なるせ まさなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。犬山藩初代藩主で、尾張藩の附家老。成瀬正一の長男。母は熊谷直連の妹。通称は小吉、従五位下に叙任後は隼人正を名乗る。
幼少の頃より小姓として徳川家康に仕える。天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いで小姓組に属して初陣し、勇敢に敵陣に飛び込み兜首ひとつを挙げ、この功積により家康より500石と脇差を賜る。天正13年(1585年)には、秀吉の攻撃で四散した根来衆50名を与えられ、17歳にして一軍の将となる。この鉄砲隊が後に根来組といわれる百人組の部隊である。また、天正18年(1590年)の小田原征伐で功を挙げ、豊臣政権に服従した家康が関東に移封されると下総国葛飾郡栗原4000石を与えられた。江戸では四谷に屋敷を与えられ、組下の根来組を内藤新宿に配置し、甲州街道の防衛にあたった。朝鮮出兵を控えての大坂での馬揃えでは、豊臣秀吉の目に留まり、5万石で召抱える旨を言い渡されたが、二君に仕えずとして涙を流し、「どうしてもというのであれば腹を切る」と固辞したという逸話がある。家康の老中(家老)となって本多正純安藤直次らと共に政務の中枢、初期幕政に参与した。また、幕府直轄領であった甲斐国内に2万石、三河国加茂郡内に1万石を与えられて3万4000石の大名となった。慶長12年(1607年)、従五位下に叙せられ、隼人正を称した。慶長15年(1610年)に尾張徳川家の祖・徳川義直の補佐役となり、尾張藩創成期の藩政を指揮し、その確立に功績を残した。尾張藩の附家老であった平岩氏が無継断絶した後に、家康より特に乞われて附家老に任じられ、犬山城を与えられた。  (wikipedia-成瀬正成より)]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*