マーカーはカメラ位置です。
[日本独特の地図の形式に切絵図(きりえず)というのがある。都市をいくつかに分割し携帯にも便利にした地図であり、現代でいえば「区分地図」にあたる。江戸の市街や近郊地域を31の地図に分割して編纂した絵地図集である。この切絵図を出版したのが、麹町4丁目(現)にあった金鱗堂尾張屋清七と、麹町6丁目(現)の近吾堂近江屋五兵衛であった。当初は、嘉永年間にもともと荒物屋であった近吾堂が最初に出版した。しかし、これは1色刷りであったのに対し、錦絵などを扱う地本問屋であった尾張屋が出した金鱗堂版は多色刷りを用いてカラフルにしたのが人気を呼んだ。とくに幕府官吏が住んでいた番町地域は、しばしば屋敷が変更するので、それぞれに発行年によってその場所を確認することが必要となった。まさに麹町は地図産業の発展の地でもあった。 (「麹町界隈 わがまち人物館 – 尾張屋清七(金鱗堂)跡」より)]
近江屋五平(近吾堂)
[一般に江戸切絵図とは、登場した順番に吉文字屋(きちもんじや)板、近吾堂板、尾張屋板、平野屋板の四種類を指しますが、江戸全体をカバーしたのは近吾堂板と尾張屋板で、特に有名なのもこの二つです。
近吾堂板(近江屋板)
麹町十丁目(現在の6丁目)にあった荒物屋の近江屋が1846(弘化3)年から刊行を始めた地図です。近江屋があったのは四ツ谷御門(現在の新四谷見附橋)のすぐ近くで、これは武士の住居地である番町の入り口にあたります。江戸時代には表札を出す習慣もなく、また特に番町のような屋敷街では目印になる建物などもないため、地理を知らない者には人の家を訪ねるのも一苦労でした。近江屋では武家屋敷を訪ねる人からひっきりなしに道を聞かれるため、説明のために番町の地図を作ったのですが、地図の人気が出たために販売を始めました。近江屋はもともと地図とも出版とも無関係でしたが、このアイデアは非常に当たり、番町以外の地図も刊行することになったのです。近吾堂板は、やがて31枚(のち数が増えて38枚)の地図で江戸全体をカバーするに至ります。堂号は近吾堂、屋号は近江屋で、近吾堂板とも近江屋板とも呼ばれますが、近吾堂板の方が一般的です。 (「江戸切絵図-地図趣味のすすめ」より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図」
カメラ北北東方向付近に近江屋五平(近吾堂)があったようです。