鳩居堂跡

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鳩居堂跡
[靖国神社境内の大きな銅像の人物・村田蔵六(大村益次郎)は一時期、現在の内堀通り(当時の新道一番丁)で私塾「鳩居堂」を開いていた。現在の戦没者墓苑の西側に隣接する所である。蔵六が32歳の頃からであった。
司馬遼太郎氏の小説「火神」によると、蔵六は安政3年(1856)宇和島藩伊達宗城の参勤 交替に従って江戸に出た。当時はペリー来航後のこともあって外国事情に関心が高く、蘭学を学ぼうとする者が多かった。しかし当時の江戸には満足できる程の蘭学塾がなかった。江戸に出た 蔵六は巣鴨にあった宇和島藩の小さな控え屋敷に住み着いていたが、この当時の時代の要求から、オランダ語を通じて西洋の技術を学ぼうとする若者たちが蔵六の噂を聞いて次々と訪ねてきた。このような事情から蔵六は塾の経営を思い立ち、宇和島藩主に私塾開設を願い出た。藩主はその申し出を許し、蔵六に従来通りの身分と扶持を与えた。早速、現在の内堀通りに面した御家人柴山某の屋敷を買い取り、ここに安政3年11月に私塾「鳩居堂」を開いた。現在の戦没者墓苑の西隣である。
創設間もない鳩居堂では教授する学科の教科書は少なく、例えば砲術の講義には砲術の教科書が1冊しかないような状態であった。 塾生達は講義を聴く前夜にその関係部分を筆写した後、更に塾に1冊しかない辞書を使い文章の大意をつかんで講義を聴くと言う繰り返しであった。鳩居堂では、オランダ語、物理学、生理学、医学、兵学が講じられた。塾の評判は悪くなく結構繁盛したようである。間もなく蔵六は江戸幕府蕃書調所の教授手伝(助教授)となり毎日出勤することとなったがこの間も塾頭の代講により鳩居堂は続けられた。その後、蔵六の能力を必要とした長州藩は、蔵六に長州藩士になることを 懇請した。もともと長州生まれの蔵六はこの懇請に応じて万延元年(1861)長州藩士となった。 この長州藩出仕により蔵六は麻布長州藩邸の洋学講義所で兵書翻訳と講義をすることとなり鳩居堂は 閉鎖せざるを得なくなった。鳩居堂最後の入門者が文久3年(1863)となっているのでこの 鳩居堂開設期間は約7年間と言うことになる。  (「千鳥ヶ淵戦没者墓苑周辺の今昔 」より)]

[靖国神社の境内に堂々とした銅像がある大村益次郎(旧名・村田蔵六)の屋敷が新道一番町(現:三番町2)にあり、ここで蘭学塾「鳩居堂」を開いている。彼は長州の村医者の子として生まれた。当初医学を修め緒方洪庵の適塾へ入り、塾長を勤める。後に長州藩で兵学を講じ、この間に兵制改革をすすめた。明治元年、彰義隊の掃討を指揮。さらに戊辰戦争で勝利をおさめ、その功により初代兵部大輔に任じられた。維新後は国民皆兵による徴兵制度など兵制近代化を推進したが、明治2年京都で守旧派浪士に襲われその怪我がもとで没した。司馬遼太郎の小説『花神』は、彼の生涯を描いたものである。  (「大村益次郎 – 麹町界隈わがまち人物館」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図」(絵図中上・新道一番丁右端上に村田蔵六と描かれています。)

カメラ東北東方向付近に鳩居堂跡があったようです。

大村益次郎【おおむら ますじろう】
[幕末明治初期の兵学者。
 周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。名は蔵六。
 弘化3年(1846)、大阪緒方洪庵適々斎塾蘭学と医学を学び、塾長となる。長崎シーボルトに師事。のち郷里で医者を開業。また宇和島藩に招かれて、兵書翻訳や軍艦製造を指導。安政3年(1856)には江戸(現在の三番町)に、蘭学塾・鳩居堂を開いた。宇和島藩御雇の身分のまま、同時に江戸幕府蕃書調所教授方手伝となり、月米20人扶持・年給20両を支給される。安政4年(1857)幕府の講武所教授となった。
 万延元年(1860)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。で兵学を講義。攘夷運動や兵制改革に活躍する。
 慶応2年(1866)第二次長州戦争で軍略家として名をあげ、明治元年(1868)には、江戸上野彰義隊を制圧。
 翌年、新政府の兵部大輔となって、軍制の近代化を推進した。当時、新道一番町(現・三番町)に屋敷があった。
 明治2年(1869)、大村は京都の旅館で刺客に襲われ重傷を負った。辛くも一命をとりとめた大村は山口藩邸に移送され、数日間の治療を受けた後、大坂の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、容態が悪化し死去した。享年46。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。  (「千代田区観光協会-ちよだの人々-歴史上人物の一覧-大村益次郎」より)]

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