麹町教授所跡

マーカーは麹町教授所跡です。

麹町教授所跡
[善国寺坂をおりた角に麹町教授所(1791~1816)がありました。御茶ノ水湯島にあった昌平校学問所の付属でした。昌平坂学問所(昌平黌)は朱子学儒教教育を行う幕府の学校で、全国の藩から多くの人材を集めていました。これに対して一般庶民を集めて初心者教育したのが、三校あり、そのひとつがこの麹町教授所でした。学んだものは1500人ともいわれ、優秀なものは昌平校学問所に進学しました。1816~1868まで松平謹二郎によって再開し、就生舎(生徒250人)として継続しました。  (「第104回 麹町教授所(三番町) – 千代田区観光協会」より)]

[麹町教授所について説明すると、江戸幕府直轄の教授所として江戸麹町の善国寺谷(東京都千代田区麹町3、4丁目)辺に設置。寛政3年(1791)、浪人儒者服部善蔵に幕府より土地屋敷などを援助して設立し学問教授所と称しまた麹渓精舎とも称した。文化13年(1816)後継者が無く中断したが天保13年(1842)林大学頭らの建言により再建され、昌平坂学問所の直轄学問所となった。歴代学頭は、松平謹次郎、御牧又一郎、大島丈二郎、大久保祐助で、明治元年(1868)東京府に収められ、同年12月学制改革で改められた。聴講者は、武士のほか農工商も許された。進歩の状況により昌平坂学問所に通い稽古も可能であり幕末まで1500人以上が入門した【国史大辞典参考】以上のように武士以外にも広く一般に向けた学問所で昌平坂学問所の予備校といえる、林のその後の幅広い人脈はここで養われた。  (「維新静岡史 小説 歴史・時代 – 魔法のiらんど」より)]

服部栗斎(はっとり りっさい)
[1736-1800 江戸時代中期-後期の儒者。
享保(きょうほう)21年4月27日生まれ。服部梅圃(ばいほ)の子。上総(かずさ)(千葉県)飯野藩士。大坂五井蘭洲(ごい-らんしゅう),江戸村士(すぐり)玉水にまなぶ。玉水没後,その塾をつぐ。寛政3年(1791年)幕府設立の麹町(こうじまち)教授所(麹渓書院)の学頭となった。寛政12年5月11日死去。65歳。飯野藩領摂津豊島(てしま)郡(大阪府)浜村出身。名は保命。字(あざな)は佑甫。通称は善蔵。著作に「隠居放言」など。  (「服部栗斎(はっとり りっさい)とは – コトバンク」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図(嘉永新刻・1848年-1855年)」[絵図右端中央下付近・善国寺立跡の左方向に松平謹次郎と記述されている場所が麹町教授所です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 三」[166/186(寛政4年・1780年)・善国寺坂通上に服部善蔵拝借地と描かれています。167/186(文化5年・1808年)・善国寺坂通上に服部善蔵拝借地と描かれています。168/186(天保9年・1838年)・善国寺坂通上に学問所持地と描かれています。170/186(文久元年・1861年)・善国寺坂通上に学問所持地松平謹次郎と描かれています。]

カメラ初期設定方向付近が麹町教授所跡のようです。