別所坂(目黒新富士跡)

    上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。

    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

    別所坂(目黒新富士跡)
    [別所坂は目黒区の東北部の高台、淀橋台から目黒川の谷に面した急斜面を切り割った、いわゆる切通しで、渋谷区境から中目黒1丁目、2丁目境を目黒川田楽橋に下る、折れ曲がった長い急坂である。
    坂の由来については、郷土目黒誌によると「この坂を下ったところに別所と呼ばれた地名のところがあったからである」と記されており、かつては江戸の人びとが麻布辺りから行楽の地、目黒に入る近道として重要な交通路であった。また、坂上は富士のながめの良いところで、えぞ・千島の探検で知られた近藤重蔵が文政2年(1819年)、新富士・近藤富士などと呼ばれた築山を造り、目黒元富士とともに江戸名所のひとつとして、行楽客に親しまれていたと言われている。この築山は昭和34年まで、その形を残していたが取り崩され、今は、「文政二己卯年六月建之」の碑石が残されているのみである。 (「別所坂 目黒区」より)]

    [近藤重蔵は本宅(正受院(不道の滝跡)、近藤重蔵石像)のほかに、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒2-1)に広大な遊地を所有しており、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園した。目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた。 文政9年(1826年)に上記の三田の屋敷の管理を任せていた長男の近藤富蔵が、屋敷の敷地争いから町民7名を殺害して八丈島流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に預けられる。
    文政12年6月16日(1829年7月16日)死去。享年59。死後の万延元年(1860年)に赦免された。  (wikipedia・近藤重蔵より)]

    [目黒区みどりの散歩道◎目黒川コース
     目黒の”新富士”と新富士遺跡
    この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸時代後期には、えぞ・千島を探検した近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造、目切坂上の目黒”元富士”に対し、こちらは”新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。
     平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺構が発見された。遺構の奥からは石のや御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺構は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。(「名所江戸百景 第24景「目黒新富士」|東京ガードレール探索隊 」より)]

    別所坂上庚申塔
    [旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。寿命が縮まっては大変。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、「枕草子」、「大鏡」などに記述があります。この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行しました。身を慎むことから始まりましたが、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。  (「目黒区ホームページ – 東部地区の庚申塔」より)]

    別所坂上庚申塔(中目黒一丁目1番)
    [きつい坂道を上ったところに6基の庚申塔が収められています。  (「目黒区ホームページ – 別所坂上庚申塔」より)]

    名所江戸百景[歌川(安藤)広重](目黒新冨士 (現在の目黒区中目黒2丁目 別所坂付近)・wikipedia-photo)
    [歌川広重名所江戸百景』より「目黒新富士」=現在の目黒区中目黒2丁目・別所坂上付近。三田用水は、できるだけ標高を維持するため尾根筋を選んで開削されており、とくにこのあたりでは“崖の上を縫って流れる”ような具合だった。画中にもその様子が見てとれる。なお、用水や崖の向きから言えばこの絵は南東を望んでおり、富士山を背後にもってきたのは広重の脚色である。

          (wikipedia・三田用水より)]

    国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図右上に新富士と描かれています。)

    国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [4]拾六中」(コマ番号4/5・絵図左上方向に新富士と別所坂が描かれています。新富士の西側を三田用水が流れています。)

    国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [3]拾六中」(コマ番号94/136・絵図右ぺージ中央付近に新富士と別所坂が描かれています。新富士の西側を三田用水が流れています。)

    6 荏原郡目黒村全図(明治44年)」(表示されている地図をクリックすると拡大図が表示されます。地図中央右方向に別所坂が描かれ、別所坂上に三田用水が描かれています。)

    絵本江戸土産 – 目黒新富士山上眺望(拡大図)

    別所坂 – Google Map 画像リンク」、「庚申塔 – Google Map 画像リンク」、「目黒新富士跡 – Google Map 画像リンク

    別所坂上・カメラ南方向に「目黒の”新富士”と新富士遺跡」の案内板が、カメラ西南西方向に庚申塔があります。

    別所坂下・カメラ南東方向が別所坂です。

    別所坂児童遊園のカメラで、カメラ南東方向に石碑と説明板が設置されています。三田用水は新富士の西側を流れていたようで、カメラ位置付近を流れていたようです。

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    *