多度津藩京極家下屋敷跡

マーカーは多度津藩京極家下屋敷跡です。

関連リンク – 多度津藩京極家上屋敷跡(国際文化会館)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP608・コマ番号348/553から多度津藩屋敷の変遷について記載されています。P610・コマ番号349/553「下屋敷 白金新堀端 芝区白金志田町」がこの地になります。

京極高典
[京極 高典(きょうごく たかまさ)は、京極高宝(5代藩主・京極高琢の庶弟)の次男として江戸にて誕生。
安政4年(1857年)4月6日に伯父である高琢の養嗣子となる。安政5年(1858年)12月にを高典と改め、翌年3月11日の高琢の隠居により跡を継いだ。万延元年(1860年)5月に参勤交代江戸に赴き、従五位下壱岐守に叙任される(後に河内守、下総守と変遷)。元治元年(1864年)11月、江戸より多度津に帰る途上、孝明天皇に拝謁し天盃を賜わり、12月26日まで京都御所日之御門警衛の警備を命ぜられる。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは官軍として戦う。1月19日、本藩丸亀藩土佐藩と共に高松藩を攻める。この時は大目付服部喜之助を総督に先進隊の兵士50人を従軍させたが、高松藩は間もなく降参したので、1月21日に兵を帰した。伏見取締を命ぜられ、伏見街道および鳥羽口の警備をする。
明治4年(1871年)正月に他の藩より先に解藩の建白書を明治政府に提出し、2月5日に廃藩を容れられ、藩は倉敷県に合併となり知藩事を免官となる。4月8日に家財をまとめて東京に向け汽船温泉号で出航するが、18日に遠州灘沖で難破し、家財や藩の記録はすべて沈んでしまった。  (wikipedia・京極高典より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図四つ切右下端に京極壱岐守(京極高琢)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/5・絵図四つ切左上、新堀川左上方向に京極壱岐守(京極高琢)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は港区白金1丁目4地先で、カメラ南東方向が多度津藩京極家下屋敷跡になると思います。