大村藩大村家下屋敷跡

マーカーは大村藩大村家下屋敷跡です。

関連リンク – 大村藩大村家上屋敷・宇土藩細川家上屋敷跡(国立国会図書館東京本館)

大村純熈
[大村 純熈(おおむら すみひろ)は、文政13年11月21日(1831年1月4日)、肥前国大村藩第10代藩主・大村純昌の十男として玖島城で生まれる。弘化3年(1846年)に兄で第11代藩主である純顕の養子となり、12月18日に兄が病気で隠居すると、弘化4年(1847年)2月21日に家督を継いだ。
蘭学に通じ、文武や学問を奨励した。文久2年(1862年)には平戸藩と同盟を結んでいる。幕末期は藩内で佐幕派と尊王派が対立し、文久3年(1863年)に純熈が長崎総奉行に任じられると佐幕派が台頭した。しかし尊王派はこれに対して改革派同盟を結成し、元治元年(1864年)、純熈の長崎総奉行辞任により逆に尊王派が台頭した。
慶応3年(1867年)、改革派同盟の盟主である針尾九左衛門・松林飯山らが暗殺されると、逆にこの「小路騒動」と呼ばれた闘争を契機に純熈は佐幕派を処罰し、藩論が一気に尊王倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。
以後、薩摩藩長州藩などと共に倒幕の中枢藩の一つとして活躍し、戊辰戦争では東北地方にまで出兵した。この功績により、明治2年(1869年)6月には賞典禄3万石を与えられ、版籍奉還により大村知藩事に任じられた。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県で知藩事を辞職する。  (wikipedia・大村純熈より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図四つ切右下・瑞聖寺右上方向に大村丹後守(大村純熈)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [4]拾六中(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/5・絵図四つ切右上・瑞聖寺左方向に大村丹後守(大村純熈)下屋敷が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切左上・白金三光町317番が大村藩大村家下屋敷跡と思われます。)

カメラ南南西方向は東京大学医科学研究所附属病院で、この付近が大村藩大村家下屋敷跡になると思います。