宇和島藩伊達家下屋敷跡

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宇和島藩伊達家下屋敷跡
[1966年(昭和41年)7月1日に住居表示が実施され、現在の恵比寿三丁目が伊達(だて)町であった。伊達町の名称は宇和島藩伊達家の下屋敷があったことに由来する。  (wikipedia・恵比寿_(渋谷区)より)]

[慶長19年(1614年)12月28日、伊達秀宗徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城したことから、宇和島藩が正式に成立した。秀宗は戦国の世に「独眼龍」と称された仙台藩伊達政宗庶長子である。秀宗ははじめ政宗の世子であったが、天下の覇権が豊臣家から徳川家に移り、また政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれたこともあって、秀宗はその立場が問題になった。このため、政宗は徳川家に秀宗の身が成り立つように嘆願し、大坂冬の陣で政宗と秀宗がともに徳川方として従軍すると、幕府は政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えた。宇和島藩伊達家は仙台藩の支藩ではなく新規に国主格大名として取り立てられ、秀忠より「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶ」ように命じられた。ただし、幕府の有力外様大名統制政策の一つで伊達家を東西に分断し、また豊臣家に近い秀宗を僻遠の四国に遠ざける必要があったため、ともされている。秀宗入府のときの家臣団は米沢時代の「伊達57騎」の中から選ばれたものだったため、仙台藩とは直接関係がない成立だったが、仙台藩は支藩と主張し、特に秀宗の時代はもめごとが絶えなかった。なお、この57騎は政宗が選抜したといわれる。
宇和島藩の藩政は秀宗期にほぼ確立した。ただし、肝心の秀宗は寛永14年(1637年)に中風に倒れ、実際の藩政は次男で継嗣の宗時が担当した。なおこのため、宗時は宇和島藩の第2代藩主と見なされることもある。宗時は寺社造営、植樹、領内検地を実施し、この検地を基にして定免法を採用し、さらに家臣の知行を従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米現物支給)に移行した。しかし承応2年(1653年)に宗時は早世し、弟の宗利が継嗣となる。
宗時の死後、秀宗の五男で宗時と宗利の異母弟にあたる宗純が秀宗による3万石のお墨付き(分知状)を持ち出し、宇和島藩では和霊騒動以来の騒動が起こった。これには秀宗の縁戚で幕府の宿老である井伊直孝、仙台藩の実力者伊達宗勝を巻き込み、さらに宗純や配下の家臣らによる陰謀などもあったとされる。結局、直孝の説得により宗利が折れざるを得なくなり、宗純に3万石を分知して伊予吉田藩を創設した。だが、吉田藩領の主要部分は肥沃な穀倉地帯の上、飛び地を有していたために宇和島藩との境界線が複雑になり、領地の帰属をめぐっての争いが絶えなかった。宗利は吉田藩創設にあたり、高禄の家臣を宗純に押し付けるという報復に出たため、両藩の反目は長く続くことになる。
明暦3年(1657年)7月に秀宗は隠居し、宗利が正式に第2代藩主に、8月に宗純が正式に伊予吉田藩3万石の初代藩主となった。
宇和島藩と伊予吉田藩・仙台藩との関係
『仙台市史 通史5 近世3』によると、その後は緊密化したが、3代藩主伊達宗贇が仙台藩主家から直接でなく陪臣石川家を経ての養子縁組だったり、次代伊達村年が仙台藩に伺いを立てながら藩政を遂行したので、かえって仙台藩から低く見られるようになったため、寛延元年に村候が「同苗別家」を主張する本末争いが起こった。堀田正亮の仲裁で、仙台藩以外で「家本」と「家分れ」という関係を公称することが許可されることで決着したが、仙台藩では相変わらず末家扱いの上、仙台藩公式記録『治家記録』に「陽に親しく交わり給うといへども、陰には互いに睦まじからず」と記すレベルに関係は冷却化した。秀宗は遺言により五男・宗純に3万石を分知したが、それによって宇和島藩は実質的に7万石となり、準国主大名から城主大名に転落してしまうため、この分知の正統性をめぐり長期にわたって係争が続いた。
最終的に、宇和島藩は元禄9年(1696年)、3代藩主伊達宗贇の時に新田開発を理由に7万石から10万石への領地石高修正を幕府によって認められ、そのかわりに吉田藩の正式独立が認められ、決着した。10万石への石高修正は認められたものの、宇和島藩の実高は7万石であったため、さらに新田開発や産業振興に努めたものの、宇和島藩は疲弊した。一方、吉田藩もこの独立を機に宇和島藩と友好関係を結び、実質上宇和島支藩的な存在に変わっていく。
幕末伊達村寿文化14年(1817年)から病気により継嗣の宗紀に藩政を代行させ、文政7年(1824年)に隠居して第7代藩主には宗紀が就任した。宗紀も5か年にわたる倹約をはじめ、奢侈の禁止や文学の奨励、産業の振興と統制、人材の育成などを中心とした藩政改革を行った。宗紀は長男と次男を早くに失い継嗣がなかったため、旗本山口家の出身で祖父山口直清が村候の次男だったことから養子に迎えられることになったのが宗城である。
明治時代になると、宗城は海外事情に通じていたことから新政府の外国掛・外国事務総督・外国官知事となった。明治4年(1871年)4月、宗城は全権大使として日清修好条規の締結に当たった。7月14日、廃藩置県により宇和島藩は宇和島県となった。
なお、藩主家は明治17年(1884年)、華族に列せられたが、宗城の功績を評価され侯爵となった。これは、奥羽越列藩同盟に連座し減封を受けた結果、伯爵止まりとされた仙台本家を上回る。  (wikipedia・宇和島藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図四つ切右上伊達遠江守下屋敷が描かれています。)

「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [4]拾六中」(コマ番号2/5・絵図中央に伊達遠江守下屋敷が描かれています。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年地図の伊達遠江守下屋敷跡が伊達跡その右側に伊達前と記述されています。

カメラ位置は恵比寿3丁目14、15先交差点で、恵比寿3丁目11 – 24と25,26の一部が宇和島藩伊達家下屋敷跡と思われます。屋敷地の北西方向に伊達坂があります。