高松藩高松松平家下屋敷(現国立科学博物館付属自然教育園)

マーカーは国立科学博物館付属自然教育園です。

 

関連リンク – 高松藩松平家上屋敷跡(アイガーデンエア)水道橋金刀比羅宮(高松藩中屋敷邸内社)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP554・コマ番号321/553から高松藩屋敷の変遷について記載されています。P556・コマ番号322/553「下屋敷並抱屋敷 目黒白金臺」がこの地になります。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示で中央右方向・「白金」下に松平讃岐守が描かれています。)

松平讃岐守下屋敷
[自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20~50万年前)海食によって作られました。
いつ頃から人が住み着いたかは不明ですが、園内から縄文時代中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代には人々が住んでいたと考えられます。
平安時代には目黒川渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと考えられています。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明ですが、白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。
江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残であろうと思われます。
明治時代には火薬庫となり、海軍省陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれました。
その後、昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っています。  (「附属自然教育園について ≫ 沿革 – 国立科学博物館」より)]

国立科学博物館付属自然教育園ホームページ」 – 「園内紹介 ≫ ガイドマップ
国立科学博物館付属自然教育園図

「子ページへリンク – 東京都庭園美術館

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図(天保十三年・1842年)」(コマ番号3/7・絵図左下に「松平讃岐守」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図中央に松平讃岐守下屋敷が描かれています。)

高松藩松平家下屋敷跡 – Google Map 画像リンク」、「東京都庭園美術館 – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向が松平讃岐守下屋敷跡(現東京都庭園美術館のストリートビュー)です。

カメラ北西方向が国立科学博物館付属自然教育園入口のストリートビューです。

国立科学博物館付属自然教育園・水生植物園のストリートビューです。

国立科学博物館付属自然教育園・水鳥の沼のストリートビューです。

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