松見坂地蔵

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マーカーは松見坂地蔵です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央から右上方向、駒場原の右下渋谷道(滝坂道)の駒場原から流れる空川に遠江橋が描かれています。また、遠江橋西側に御用屋敷と御薬園沿地が描かれています。]

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図に遠江橋が描かれています。

東京府15区8郡時代の町村区分図 | 資料紹介 | 特別区協議会」 – 「東京府荏原郡目黒町」(地図四つ切・左上、字氷川右上方向新遠江橋と記述されています。)

松見坂地蔵
[淡島通りの松見坂下を横切る川が流れている。空川(そらかわ)という名前で現在は暗渠になっているが、50年ほど前にはよく氾濫したそうだ。川には橋がかけられていて、その名前は遠江橋(とおとうみばし)といっていた。伊達遠江守(宇和島藩)によって創設されたことによるようだ。伊達遠江守とは宇和島の伊達家のことで、徳川時代初期からその名が使われているため第何代の遠江守の時なのかはわからない。淡島通りは甲州街道中出道・瀧坂道と呼ばれた中世から重要な街道で、しかも徳川時代になってから御薬園御用屋敷に向かう入り口のような橋だったのだろう。空川は太古から流れていたにちがいないし、簡単な橋はあったのだろうが、御用屋敷ができたことで橋が立派になったことも想像できる。
今では橋のあったことなど想像もできないが、橋の欄干の石が松見地蔵の横にあり、山手通りを渡ったところには石橋供養塔と書かれた石碑が保存されている。淡島通り拡張のときに移動されたものが、山手通りの反対側に置かれ放置されてしまったが、2年ほど前に見つかったとか。文化9年(1812年)に近隣の13カ村が建造したとある。目黒区教育委員会で拓本をとって調査中とは聞いたがどうなったか。伊達遠江守の名が刻まれているのだろうか。
遠江橋の横には松見地蔵尊があり、享保11年(1726年)と書かれた石が残っていることから、その時代には地蔵尊のあったことをうかがわせる。  (「遠江橋と松見地蔵(3月12日): 東大駒場キャンパスの街から」より)]

[御用屋敷を含むこの地域は元々、上目黒村の加藤家が拓いた土地でした。寛永3年(1626)に御用屋敷になる土地が加藤家より伊予宇和島藩伊達家へ献上され、同家の下屋敷となりました。そして、幕府によって江戸周辺の鷹狩場が整えられるに従い、享保3年(1718)に伊達家より下屋敷は建物を含めて幕府に差し出されて、御用屋敷になりました。御用屋敷には、将軍家のための「御薬園」も設けられ、薬用の植物が栽培されていました。  平成22年12月  目黒区教育委員会  (「めぐろWALK めぐろの街を歩いてみよう。」 – 画像より)]

[松見坂交差点のすぐ西側に空川の跡が残っています。駒場野公園の湧水池や東大駒場キャンパスの一二郎池などを水源として目黒川に注ぐ小さな川で、ここに架かっていたのが遠江橋。今は川も暗渠化され、橋もありませんが、交差点の南西側に明治32(1899)年に架けられた橋の親柱が保存されています。
 そして、その横には松見坂地蔵尊があります。2体の地蔵と三猿を刻んだ庚申塔が1基、並んでいますが、いずれも新しいものなので、復元されたものだと分かります。ただ、明治の親柱と一緒に「享保十一年」(1726年)と刻まれた手洗鉢台石(らしい)が保存されているので、古くからここに地蔵尊が祀られていたのでしょう。「商賣繁昌・家内安全・延命長寿・万病快癒・交通安全・入学祈願」とご利益が列記されています。
 空川の谷へ下って上る急坂が盛り土によって勾配緩和された現行道路より一段低いこの場所は新道の下に埋もれた古道の名残なのでしょう。  (「世田谷の古道・滝坂道パート1(渋谷・道玄坂~豪徳寺)」より)]

目黒の坂 松見坂 目黒区

松見坂(目黒区駒場/大橋): ぼのぼのぶろぐ

古道「滝坂道松見坂」から見た駒場野です。

カメラ位置は松見坂交差点で、カメラ南西方向が昭和58年に東京都が設置した松見坂案内の石碑です。

カメラ南西方向が松見坂地蔵です。

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