マーカーは柳生藩柳生家下屋敷跡案内板です。
関連リンク – 柳生藩柳生家上屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP716・コマ番号402/553から柳生藩屋敷の変遷について記載されています。P718・コマ番号403/553「下屋敷 上大崎」がこの地になります。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央右方向・「上大崎」左上方向に柳生但馬守と描かれています。]
柳生藩柳生家下屋敷跡
[旧上大崎村の大和国(奈良県)柳生藩柳生家下屋敷の場所は、西五反田三丁目3番、4番、5番から6番の一部にあたり、屋敷地の広さは1万2千坪余ありました。柳生藩(1万石)は、現在の奈良市柳生地区を治めた藩で、石高1万石程度の小藩でした。藩主の柳生家は代々将軍家の剣術指南役を務め、そのため参勤交代を行わずに江戸に定住して将軍に仕える定府大名でした。
柳生宗矩
柳生藩の初代藩主は柳生宗矩で、父柳生宗厳は剣術の一流派、柳生新陰流の創始者として知られ、徳川家康に仕えていました。宗矩も剣術の才によって徳川家康・徳川秀忠・徳川家光に仕え、厚遇されたのです。宗矩は関ヶ原の戦いに従軍し、柳生荘に2,000石の所領(しょりょう)を安堵されました。慶長6年(1601)に、のちの2代将軍・徳川秀忠の剣術指南役となり、ついで3代将軍・徳川家光にも剣術指南役として仕え、新陰流を伝授しています。寛永9年(1632)に、宗矩は初代の幕府総目付(大目付)となり、諸大名の監視を任務としていました。寛永13年(1636)に所領の加増があり、計1万石を受けて大名となり、大和国柳生藩が立藩したのです。その後、加増され1万2,500石になっています。柳生宗矩は、北品川3丁目の東海寺の開山、沢庵和尚との親交が深く、寛永12年(1635)に沢庵が宗矩の別邸に一時的に身を寄せていました。
沢庵和尚
また沢庵は、寛永15年(1638)には、宗矩が父宗厳のために大和柳生の地に創建した芳徳寺の開山となっています。沢庵和尚が柳生宗矩に与えた書簡集『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』は、宗矩に対して、沢庵が禅を通じて兵法(武術)の理を解いて示したものとして知られ、柳生新陰流に大きな影響を与えたといわれています。
柳生宗矩の死後、柳生藩の遺領は、長男・柳生三厳(十兵衛)に8,300石、三男・柳生宗冬に4,000石、四男・柳生六丸(列堂)に200石と分けられたため、大名から旗本となっています。三巌の死後、宗冬がその家督と遺領を引き継ぎ(4,000石は幕府に返上)、さらに寛文8年(1668)1,700石を加増され、1万石を領する大名に復帰しました。この柳生家の下屋敷は、拝領地が9,045坪で、このうち550坪は元禄15年(1702)に御預地となったものです。拝領地のほかに抱地が3,416坪あり、合わせて1万2,461坪の屋敷でした。柳生家がいつこの地を拝領したのか分かりませんが、万治年間(1658~61)には拝領地だったという記録があります。同記録によれば抱地も元禄10年(1697)の検地以前から柳生家の屋敷地でした。柳生藩は宗矩以後、柳生家によって変わることなく明治にいたるまで13代にわたって治められました。 (「品川の大名屋敷 第19回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図中左方向に柳生対馬守下屋敷が描かれて、その左方向に森伊豆守下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号6/7・絵図中央上方向「細川越中守抱屋敷」右上に「柳生対馬守」「柳生対馬守抱屋敷」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [4]拾六中」(コマ番号4・地図中心より右上方向に柳生藩柳生家下屋敷が描かれています。)
カメラ南南東方向に柳生藩柳生家下屋敷跡の案内板があります。