桑名藩松平家抱屋敷跡

マーカーはカメラ位置です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した中央右方向・「上大崎」上方向に、松平越中守と描かれています。]

桑名藩松平家抱屋敷跡
[伊勢国(現、三重県桑名藩松平家(所領11万石)の抱屋敷は、首都高速2号目黒線を挟んだ上大崎一丁目21番と22番、上大崎三丁目7番付近にありました。安政(あんせい)3年(1856)頃の屋敷の広さは4,796坪で、このうち4,300坪は上大崎村で残りの496坪が下大崎村のなかにありました。
安政3年頃の藩主は、徳川家康の異父弟を先祖に持つ久松松平家の松平越中守定猷(まつだいらえっちゅうのかみさだみち)で、寛政の改革を主導した老中(ろうじゅう)松平定信(さだのぶ)の曾孫(ひまご)にあたり、絵図や古文書には通称名の松平和之進(かずのしん)と書かれたものが多くみられます。定猷は天保13年(1840)に藩主になったのですが、その治世は大火や飢饉さらに地震災害のため多難で、藩財政は窮乏を極めたといいます。また、嘉永6年(1853)、徳川家定(いえさだ)が第13代将軍になると、同じ「定」の字を避けるため、猷(みち)と名乗っています。
この屋敷地を最初に拝領(はいりょう)したのは、享保(きょうほう)10年(1725)のことで、本多伊予守(いよのかみ)でした。松平家がこの地を手に入れたのは寛政(かんせい)12年(1800)のことで、京極家(きょうごくけ)から譲渡されたものでした。その後、一時的に真田家(さなだけ)の屋敷地にもなっています。当時の真田家(松代藩(まつしろはん))の当主・幸貫(ゆきつら)は松平定信の次男であり、両家は親密な関係にありました。
抱屋敷の譲り渡しには、地元の上大崎村・下大崎村も深くかかわってきました。その上、新所有者は地元の村々に祝儀金を贈る慣例がありました。文政(ぶんせい)6年(1823)の記録では、上・下大崎両村の村役人は計25両の祝儀を真田家に求め、贈られています。
そして、この地は文政13年(1830)には再び松平家に譲り戻されています。  (「品川の大名屋敷 第18回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図中央、森伊豆守上屋敷下に松平越中守下屋敷が描かれています。)

「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下」(コマ番号4/5・絵図右上、松平内蔵頭下屋敷右方向に松平和之進抱屋敷と描かれています。)

カメラ位置は上大崎一丁目21番と22番境で、カメラ東北東方向道路両側とカメラ南西方向が桑名藩松平家抱屋敷跡になります。