目切坂(目黒元富士跡、地蔵・道しるべ)

    上地図右のサイドバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。

    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

    目切坂(目黒元富士跡)
    [目黒元富士跡 上目黒1-8
    江戸時代に、富士山を崇拝対象にした民間信仰がひろまり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近な所に小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間富士を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さな12mもあったといいます。文政2年(1819)に別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。元富士は明治以降に取り壊され、石や講の碑は大橋の氷川神社大橋2-16-21)へ移されました。 平成22年12月 目黒区教育委員会  (「目黒元富士跡 上目黒1-8 – Monumento(モニュメント)」より)]

    [地蔵・道しるべ
    猿楽町30番
    地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。この地蔵尊は、文政元年(1818)の造立で、その台座正面には、「右大山道南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂といい、この坂道を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道246号)に達します。また、堂前を進むと並木橋に達します。江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。 渋谷区教育委員会  (「頑固親爺の偏屈珈琲屋日記! – Yahoo!ブログ」より)]

    [「目黒の川と用水・坂の今昔」目黒区立八雲中央図書館・H20/03/31・編/刊 pp.11・12の「新道坂」の項によれば、馬引澤道が
    「あまりにも急な坂だったので、明治の終わりごろに、この坂の途中から分かれて、今の恵比寿駅や広尾方面に通じる勾配(こうばい)の緩やかな切通しの坂道を造りました。そのために三田用水の水路の下をくぐるしゃれた煉瓦(れんが)造りのトンネルを掘りました。このトンネルのある坂道を、新しく造つた道ですから、新道坂と呼びました。ところが大正の末に明治通りの渋谷橋から中目黒まで玉川電車(のちの都電)を通すために、傾斜の更に緩やかな切通しの広い坂道を造つたとき、トンネルは廃道になり、新道坂は坂上部分を失つて途中から駒沢通りの大きな坂につながれたので、元の坂とはすっかり違つた坂になりました。そのため今では駒沢通りの大きな坂を新道坂と呼ぶことにしたのです。」  (「三田用水:坂口分水」より)]

    目切坂 – 鎗ヶ崎掛樋・三田用水路平面図(玉川上水系に関わる用水路網の環境調査 P-351、352より)

    国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示の絵図中央から右上方向、上目黒、中目黒の中間・三田用水の左二股の上が目切坂、下が馬引澤道です。)

    6 荏原郡目黒村全図(明治44年)」(表示されている地図をクリックすると拡大図が表示されます。地図中央左上方向・字別所と字長谷戸の間の水路は三田用水で、用水左に「地蔵・道しるべ」が設置され、そこから二筋に分岐され、字別所の上が目切坂(右大山道)で下が祐天寺道(馬引澤道)で、途中新道坂と合流します。しかし、祐天寺道は東急東横線開通により現在途中行き止まりになっています。)

    [標識は、坂下に目黒区教育委員会設置による木製の角柱が立っています。
     また、この標識のすぐ脇に、「めぐろ風景 目黒区みどりの散歩道 目切坂と旧鎌倉街道」と題された標識があり、そこには、
     『目の前の坂が目切坂。江戸時代、近くに石ウスの目切りをする腕の良い石工が住んでいたことから、この名前がついたという。
     この道はかつての鎌倉街道でもある。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後、変事の際に援軍が鎌倉に急行できるようにとつくられた道の一つ。「いざ鎌倉へ」と、鎧かぶとの武者たちが馬を飛ばしたのは800年も昔の話だ。」』
    と書いてあります。  (「目切坂(目黒区)」より)]

    資料リンク
    国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [4]拾六中」(コマ番号4/5・絵図左端中央上付近目黒川上方向に目切坂と富士山が描かれています。)

    国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [3]拾六中」(コマ番号94/136・絵図右ページ下に目切坂と富士山が描かれています。)

    [(名所江戸百景・目黒元不二(現在の目黒区上目黒1丁目 目切坂付近)ファイル:100_views_edo_025.jpg]

    地蔵尊 – Google Map 画像リンク」、「目黒元富士跡 – Google Map 画像リンク」、「東京富士見坂 – Google Map 画像リンク」、「目切坂 – Google Map 画像リンク

    カメラ南南東方向に地蔵・道しるべがあり、右道路が目切坂で、カメラ西北西方向が旧朝倉家住宅です。カメラ北北東方向・横断歩道付近に三田用水が流れていたようです。

    目切坂上(目黒元富士跡)・カメラ南西方向に「目黒元富士跡」の案内板があり、その右方向樹木前に「関東の富士見100景」の案内板があります。

    目切坂下・カメラ東北東方向・電柱前に標識柱があります。

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

    *