島原藩松平家抱屋敷跡(目黒千代の池跡案内板)

マーカーは三田児童公園です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央右方向・「下目黒」と「白金」の間、松平主殿頭が島原藩松平家抱屋敷です。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

目黒千代の池跡
[千代ヶ崎  三田2-10-31
 JR目黒駅近くの権之助坂から恵比寿方面に向かう目黒川沿いの台地は、かって「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を臨む景勝地で、その様子は『江戸名所図会』にも描かれています。
 目黒区目黒1丁目、三田2丁目と品川区上大崎2丁目の区境あたりの地に、江戸時代、九州の肥前国島原藩松平主殿頭の抱屋敷がありました。2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があり、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた別荘がありました。
 屋敷地の一角(現、目黒1-1付近)には、かって「千代が池」という池がありました。これは南北朝時代_(日本)の武将新田義興が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投げた池と伝えられています。千代ヶ崎の地名は、この「千代が池」が由来といわれています。
    平成22年3月 目黒区教育委員会  (「2010年11月09日のブログ|東京ガードレール探索隊 」より)」

[権之助坂から恵比寿方面に向かい、区立三田児童遊園(三田二丁目10番)辺りまでの目黒川沿いの台地を「千代が崎」といい、かつて目黒元富士目黒新富士爺ヶ茶屋夕日が丘と並び富士をながめる絶好の場所で、江戸名所の一つであった。当時の人びとは花に、月に、雪に、ここを訪れては一日を楽しんで帰ったことであろう。「新編武蔵風土記稿」によると「千代が崎は、上大崎三田・中目黒・下目黒にわたって広大な敷地を有する肥前国島原藩主、松平主殿頭(とのものかみ)の抱屋敷辺りをいう・・・」とあり、また江戸名所図会には「景色の優れたところで、松平主殿頭の別荘「絶景観」があったところ」と記されている。庭には、関東第一といわれた三段の滝が落ち込む大きな池があった。さて、千代が崎の由来だが、武将新田義興の侍女千代にまつわる伝説から出たものであり、話は南北朝時代にまでさかのぼる。正平13年(1358)、義興は足利基氏畠山国清に謀られ、多摩川矢口の渡しで殺されてしまった。義興の死を知った千代は「死ねば義興のそばに行ける」と考え、この池に身を投げてしまったのである。千代を哀れんだ人びとは、この池を千代が池と呼ぶようになり、それが地名ともなったのである。千代が池は、元東京都教職員研修センター(現警視庁目黒合同庁舎・目黒1丁目1番)の構内に昭和10年ごろまで、わずかに残っていたといわれるが、今日では歌川広重画の「名所江戸百景」に見られるだけである。また、千代が崎には、こんなエピソードも残されている。松平主殿頭の屋敷内に三基の異様な灯ろうがあった。この灯ろうは大正15年に大聖院(下目黒3丁目1番)に移されたのだが、それが十字の型をした切支丹灯ろうであることがわかり、この地が潜伏切支丹の遺跡ではないかと大騒ぎになったのである。地名「千代が崎」は、昭和7年以前まで目黒町の字名として使われていた。  (「目黒の地名 千代が崎(ちよがさき) 目黒区」より)]

[名所江戸百景・ 目黒千代か池]

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・千代の崎

簿冊標題:公文録・明治十二年・第九十七巻・明治十二年一月・陸軍省」の5ページに下記の絵図があり、銭瓶窪口(上・下目黒村)分水路と右下に池が描かれています。

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図左上に松平主殿頭下屋敷が、中上に千代ヶ崎と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [4]拾六中」(コマ番号4・地図上中央に松平主殿頭下屋敷が描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「千代の崎」(7-62)、「千代の崎解説・左ページ2行目より」(7-59)

6 荏原郡目黒村全図(明治44)」(地図をクリックすると拡大地図が表示されます。地図右端中央下付近・字水道向の上方向に三田用水から二筋の分水が描かれています。上の分水は白金御殿(別名麻布御殿)、明治に入り恵比寿ビール工場への銭瓶窪口(三田村・白金村・今里村)、下の分水は銭瓶窪口(上・下目黒村)と思われます。

カメラ位置は三田児童公園前で、カメラ西南西方向・郵便ポスト右先に目黒千代の池跡案内板が設置されています。

カメラ東方向・日の丸自動車学校敷地内に三田用水跡碑が設置されています。

カメラ北北西方向が元東京都教職員研修センター(現警視庁目黒合同庁舎)でこの一画に千代の池があったようです。

島原藩松平家抱屋敷
[肥前国島原藩長崎県)松平家の抱屋敷は、JR目黒駅の北西、現在の品川区上大崎二丁目18番、21番から27番と目黒区目黒一丁目、三田一丁目の一部の範囲にあり、二つの区にまたがっています。安政3年(1856)ころの松平家抱屋敷は、2万1千坪余りで、現在の品川区に当たる部分は概ね6千2百坪ほどでした。屋敷の門は目黒駅近くの品川区側にあったことが切絵図から読み取ることができます。松平家がこの抱屋敷を手にいれた経過はよくわかりませんが、元禄年間の検地のときには存在していたようです。この屋敷の主、松平家は、寛文8年(1688)高力隆長改易により、当主松平忠房丹波国福知山藩から入り島原藩主となりました。島原藩は、江戸時代初期には日野江藩とも呼ばれ、有馬家が治めていましたが、元和2年(1616)に有馬家が延岡藩転封になると、その後は天領(幕府の直轄地)の時代を経て松倉家が治め、藩の名称も島原藩となりました。2代目藩主松倉勝家のときの寛永14年(1637)、天草四郎を総大将とする島原の乱がおこり、勝家は鎮圧することができず、また幕府から領民に反乱を起こさせた責を問われ平定後、処刑されています。その後高力家が入ったものの2代で改易となり、松平家の領地になります。寛延2年(1747)には宇都宮藩主戸田家と、譜代大名が入れ替わり治めていました。戸田家が2代治めたあと、また交替して安永3年(1774)に再び松平家が戻り幕末まで続きました。松平氏は室町時代三河国松平郷の小豪族で、のち徳川将軍家の母体となりました。島原藩主の松平家は、早い時期に分家となった家筋で十八松平のひとつに数えられ、戦国時代三河国深溝城主だったことから深溝松平家といわれています。江戸時代には、このような分家筋のほか、徳川家康と血縁関係・姻戚関係のあった家臣にも松平の姓が与えられました。幕府は仙台藩伊達家加賀藩前田家などのように外様大名にも松平の称を与えています。  (「品川の大名屋敷 第17回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]