目黒筋御用屋敷跡案内板

マーカーは目黒筋御用屋敷跡案内板です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示(北向き)・上方向中央右方向に駒場原が描かれ、その下に御用屋敷が描かれています。)

目黒筋御用屋敷跡
[御用屋敷跡
大橋2-20
江戸時代、この周辺は約5万5千坪(約18万㎡)におよぶ御用屋敷の敷地です。この辺りに建っていたと推定される建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩に来た際には食事や休息場所となり、また平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役が詰めていました。
 御用屋敷を含むこの地域は元々、上目黒村の加藤家が拓いた土地でした。寛永3年(1626)に御用屋敷になる土地が加藤家より伊予宇和島藩伊達家へ献上され、同家の下屋敷となりました。そして、幕府によって江戸周辺の鷹狩場が整えられるに従い、享保3年(1718)に伊達家より下屋敷は建物を含めて幕府に差し出されて、御用屋敷になりました。御用屋敷には、将軍家のための「御薬園」も設けられ、薬用の植物が栽培されていました。  平成22年12月  目黒区教育委員会]

[江戸時代に神田の名主が三代にわたって編さんした絵入り地誌「江戸名所図会」は、「駒場野、道玄坂より乾(いぬい)(西北)の方一四、五町を隔て代々木野より続きたる広原にて上目黒村に属し、ヒバリ、ウズラ、キジ、野ウサギの数多く御遊猟の地なり」と記している。享保期以後は幕府の御鷹場となり、鳥見役所が置かれ、広さ十五万坪、諸役御免の地となった。「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる… ズンベラ」という俗謡は、同役所の餌付御用を務めるキジ捕りの名人、川井権兵衛をうたったものという。  (「目黒の地名 駒場(こまば):目黒区公式ホームページ」より)]

鳥見
[鳥見(とりみ)とは、江戸幕府の職名の1つ。鷹狩場の管理と将軍などが鷹狩をする際の準備にあたった。なお、その源流は中世に遡り、諸藩の中にも同様の役職を設置したところがある。
鷹匠が鷹を調教する役目を担ったのに対して、鳥見は鷹狩を行う現地(鷹狩場)における鳥の生息状況を監視してより獲物の多い場所へと導く役割を担った。また、鷹狩場が一定の地域に固定されると、密猟の防止や獲物となる鳥への餌付け、更に周辺農村部における人員動員や治安確保も担当した。狩に関する知識などは長年の経験によるところが大きく、技能職として世襲される事が多かった。
また鳥の生息状況を見ると称して、武家屋敷・大名屋敷に入ることもあったことや、その職責からして80俵5人扶持は大きいことから、諜報部員としての側面があったとも言われている。
徳川家康以来、江戸幕府歴代将軍が鷹狩を愛好した事からこうした役職はその時々に応じてあったと考えられているが、若年寄の下に10人が鳥見に任じられて正式な役職として成立したのは寛永20年(1643年)のことである。徳川綱吉生類憐れみの令によって一時大幅に削減されたが、徳川吉宗の時代に復活して以後拡張された。その後、徳川慶喜が西洋軍制を採用する方針を固めた慶応2年12月(1866年、西暦では翌1867年)廃止された。
なお、現地に滞在した在宅鳥見の下には周辺農村から村役の一環として「鷹番」が登用されていたが、その負担は大きく将軍鷹狩の際の人夫徴発と合わせて農民一揆などの騒動を起こす一因にもなった。
主な役職
鳥見頭(鳥見組頭) 200俵高・野扶持5口・役金20両 – 2名
鳥見 80俵高・野扶持5口・伝馬金18両 – 当初10名、最終的に32名
鳥見見習 9名
在宅鳥見 7名(鷹狩場に居住した)  (wikipedia・鳥見より)]

Half Mile Project

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [4]拾六中」(コマ番号5/5・絵図中央右下方向に駒ヶ原御用屋敷と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [3]拾六中」(コマ番号110/136、111/136・左ページ下に駒ヶ原御用屋敷と記述されています。)

江戸名所図会. 巻之1-8 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「駒場野」(8-37)、「駒場野解説・右ページ1行目より」(8-38)

古道「滝坂道松見坂」から見た駒場野です。

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸名勝図会 駒場野

カメラ西北西方向に目黒筋御用屋敷跡案内板があります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*