目黒雅叙園(明王院跡)

マーカーは西運が行に水垢離を取ったと言われる井戸です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央右方向・「下目黒」右方向、目黒川右に明王院が描かれています。]

目黒雅叙園
[明和の大火の約90年前の天和の大火(西暦1683年1月25日)で焼け出された八百屋お七が避難先の寺で出会った吉三に恋焦がれて、吉三に再び会いたい一心で放火し、火あぶりとなった事件で、お七の恋人吉三は後に西運上人となりその墓は大円寺にある。(お七の恋焦がれた相手の名や素性は諸説ある。吉三=後の西運上人はその1説である)。お七の墓は故郷の千葉県八千代市の長妙寺や文京区白山の円乗寺にあるが、恋焦がれた吉三と墓が別なのは気の毒と昭和30年には大円寺に吉三とお七の共同の墓(比翼塚)が置かれた。
行人坂の下部、左側は結婚式場・ホテル・レストランなどで知られる目黒雅叙園がある。 江戸時代には大円寺の下には明王院という寺があった。吉三のちの西運上人は明王院の僧であった。明治に廃寺になり、吉三の墓を含め大円寺に移されている。明王院の敷地は現在の目黒雅叙園の敷地の一部となっている。  (wikipedia・行人坂より)]

[西運の念仏行
この寺(明王院)はまた、八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもある。
吉三は出家して西運を名乗り、大円寺の下(今の雅叙園の1部)にあった明王院に身を寄せたという。西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提ぼだいを弔うために、目黒不動と浅草観音に1万日日参の悲願を立てた。往復10里の道を、雨の日も風の日も、首から下げた鉦しょうをたたき、念仏を唱えながら日参したのである。かくして27年後に明王院境内に念仏堂が建立された。しかし、明王院は明治初めごろ廃寺になったので、明王院の仏像などは、隣りの大円寺に移された。
西運に深い関心を持っていた大円寺の当時の住職であった福田実衍じつえん師は、昭和18年、同寺に念仏堂を再建した際、万葉集出画撰を描いた大亦観風画伯に「お七吉三縁起絵巻」を描いてもらった。その一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿を刻んだ碑が境内に立っている。  (「歴史を訪ねて 大円寺 目黒区」より)]

[木造(旧館)の目黒雅叙園は太宰治の小説『佳日』にも登場する。絢爛たる装飾を施された園内の様子は「昭和の竜宮城」とも呼ばれ、ケヤキの板材で作られた園内唯一の木造建築「百段階段」(実際は99段)とその階段沿いに作られた7つの座敷棟宴会場の内の4つは、2009年3月16日に東京都指定の登録有形文化財(建造物)に登録された。「十畝(じっぽ)の間」、「漁樵(ぎょしょう)の間」、「草丘(そうきゅう)の間」、「静水(せいすい)の間」、「星光(せいこう)の間」、「清方(きよかた)の間」、「頂上(ちょうじょう)の間」、計7つの中から4棟の座敷棟が登録された。映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルにもなったもので、樹齢百年の床柱や天井、壁面、ガラス窓にいたるまで贅を凝らし、昭和初期における芸術家達の求めた美と大工の高度な伝統技術が融合した素晴らしい装飾となっている。希望者は申請すれば観覧が可能となっており、イベントや宿泊、食事とのセットで公開されている。2010年(平成22年)1月29日から3月3日までの期間、初めて「百段雛(ひな)まつり」という豪華絢爛な催しが行われた(第一回)。日本全国にある雛文化の中から、非常に贅を尽くしたものが多いといわれる山形の雛を中心に、上記7つの宴会場で飾られることとなり盛況を博した。
昭和初期に建設された木造の旧館においては、敗戦直前の昭和19年頃まで、戦時下の国民が苦しい時局や贅沢禁止令下にもかかわらず、大勢の著名な画家や彫刻家、塗師が出入りし、あるいは泊り込み、部屋ごとに女中と書生付きで数年にわたり内装や絵画作品を完成させたという。金泥の制限で時局の悪化を知ったという画家の逸話もある。その結果、文展やかつて帝展に出品された数多くの作品を所有し館内を飾った。その数は数千点にもおよぶ膨大なコレクションであり、旧館取り壊し時に額装保存された天井画や欄間絵とともに、新館に併設された美術館(目黒雅叙園美術館)で定期的に観覧に供したが、美術館は2002年(平成14年)に閉鎖されて、多くの作品群は散逸し個々の所在は不明である。
雅叙園・wikipedia-photo、木造館時代当時の目黒雅叙園・wikipedia-photo、「雅叙園観光ホテル(中央上、解体前)。手前の屋根は目黒雅叙園」・wikipedia-photo、座敷棟・wikipedia-photowikipedia-photowikipedia-photowikipedia-photowikipedia-photowikipedia-photowikipedia-photo  (wikipedia・目黒雅叙園より)]

明王院跡資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図中央左上・細川越中守下屋敷の上方に行人サカ・明王院・大圓寺が描かれています)

国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号6/7・絵図中央上方向「目黒川」上に「明王院」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [4]拾六中」(コマ番号4・地図中心より右上方向に太鼓橋、行人坂、行人坂右に明王院・大圓寺が描かれています。)

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。
絵図中央右方向・目黒川上に明王院、大圓寺、松平薩摩守(薩摩藩)と記述されています。松平薩摩守屋敷地はこれ以降、熊本藩細川家→盛岡藩南部家へと所有が移る。 (「7:『目黒筋御場絵図』に見る江戸時代の目黒・大崎 ~ 目黒・大崎 | この」より)]

カメラ位置は目黒雅叙園入口で、カメラ東南東方向に西運が行に水垢離を取ったと言われる井戸があります。

カメラ位置は目黒雅叙園前庭で、カメラ西北西の井戸が西運が行に水垢離を取ったと言われる井戸です。