マーカーは八芳園です。
関連リンク – 薩摩藩上屋敷跡、芝さつまの道、薩摩藩装束屋敷跡(元鹿鳴館)、西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑、薩摩藩島津家下屋敷跡(常陸宮邸)、常盤松の碑、薩摩藩島津家抱屋敷跡(東大井遊歩道)、柘榴坂(薩摩藩島津家・久留米藩有馬家下屋敷跡)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP526・コマ番号307/553から鹿児島藩屋敷の変遷について記載されています。P528・コマ番号308/553「抱屋敷 白金村今里」がこの地になります。
薩摩藩島津家下屋敷跡(八芳園)
[八芳園(はっぽうえん)とは東京都港区白金台に所在する、1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場である。明治学院大学、シェラトン都ホテル東京と近接している。庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。江戸時代初期には譜代の江戸幕府旗本・大久保忠教(彦左衛門)の屋敷(但し、現在の園全域ではなく一部が彦左衛門の屋敷地)であったが、その後薩摩藩の抱屋敷、島津氏(松平薩摩守)の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡る。1915年(大正4年)、実業家久原房之助邸宅時に現在の建物と庭園が整備された。戦後久原(当時公職追放中)は、銀座や築地で料亭などの経営を手がけていた長谷敏司に、海外からの旅行者(賓客)向けに、日本庭園を生かした本格的な料亭の共同経営を持ちかけ、自ら「八芳園」と命名し1950年(昭和25年)に創業した。数年後全面的に長谷側の所有となり、経営が本格化した。 (wikipedia・八芳園より)]
[絵図は、江戸時代後期の弘化三年(1846)のものですので、町屋が許された慶安四年(1651)以前の旗本大久保彦左衛門忠敬(1568-1639)がこの地に隠棲した頃は、さらに農村の趣が強かったものと思われます。
現在の八芳園の土地をこの絵図でみてみますと、北側の台地の上部に「奥田主馬抱屋敷」、南側の少し下った隣に「嶋津式部抱屋敷」があって、共に桑原坂に面しています。そして両家の敷地の東端の、現在池のある低地には小川が描かれ、川沿いには道が通っています。
また絵図に書かれている奥田主馬という名前は、旗本の人名録といわれる史料『旗本姓名高寄』(天保九年・1838)に「奥田主馬/備後守」とあり、禄高は3.300石、屋敷は虎御門外と記されていますので、2.000石の大久保彦左衛門と同様の旗本だったことがわかります。また嶋津式部も同書や『昇栄武鑑』(天保十二年・1841)に「島津式部久房」禄高3.000石、屋敷は本所二目とありますので、この地は大久保家から持ち主は変わっても、旗本の別邸として存続していたようです。
(『江戸幕府旗本人名事典』全5巻 石井良助・監修、小川恭一・編著、原書房、1989)
大久保彦左衛門の屋敷は、このどちらであったかということですが、三代将軍家光より贈られた松の盆栽を地におろし、後に大木になっていたという言い伝えのある写真を見ますと、後ろに二階建ての久原邸の母屋が映っていますので、台地の上の奥田主馬邸がかつての大久保邸であったように思われます。
その後、この絵図から約10年後に発行された『尾張屋版江戸切絵図「目黒白金図」』(安政四年・1857)を見ますと、二家の抱屋敷は一つの敷地にまとめられて「松平薩摩守下屋敷」つまり薩摩島津家の下屋敷になっています。 (「<白金台の街と庭園-35> – 人と植物のつくる環境をデザイン …」より)]
[次に、後に八芳園となる土地にかかわる川や池といった水系について、改めて絵図を見てみますと、「奥田主馬」「嶋津式部」両家の敷地の東端を流れている小川がありますが、この川は玉名川(たまながわ)と呼ばれていました。玉縄台の斜面にあった「南部遠江守抱屋敷」(陸奥八戸藩二万石)の屋敷内にあった玉名池(玉縄池)から流れ出していた小川で、両家の敷地沿いから覚林寺脇を通り、その後屈曲を繰り返しながら北へ流れ、古川(渋谷川の下流)に注いでいました。
しかし水源と思われた玉名池(南部邸)にも、さらに流れ込んでいる水流が描かれていて、それは白金台に現在も残る三田用水の遺構の近くから分かれた三田用水の分流のようです。つまり玉名池は、大名屋敷の庭園の池であると同時に、三田用水の水をいったん貯めておく貯水池、あるいは調整池の役割を持っていたのかもしれません。 (「<白金台の街と庭園-36> – 人と植物のつくる環境をデザイン …」より)]
薩摩藩島津家下屋敷跡資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図中下方向・瑞聖寺下に松平薩摩守下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央右端に「奥田主馬抱屋敷」「島津式部抱屋敷」「松平阿波守家来藤本立策か家屋敷」が後年松平薩摩守下屋敷になります。)
「東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図中央左方・白金今里町、明治学院の上の水路(玉名川)上が薩摩藩島津家下屋敷跡になります。そこの左に玉名池が描かれています。)
八芳園入口門前のカメラです。
八芳園庭園のストリートビューです。
八芳園庭園池・水亭前のストリートビューです。