マーカーは西郷山公園です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右上方向・「上目黒」右に中川修理大夫と描かれています。]
岡藩
[岡藩(おかはん)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった藩。藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)。領地は豊後国の大野郡・直入郡・大分郡にまたがり、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩と呼ばれることもある。
織田信長、豊臣秀吉に仕えた中川清秀の子で、4万石を領し、播磨国三木城主であった中川秀成が、1594年(文禄3年)に66000石で岡城に入封した。その後の1598年(慶長3年)の検地によって大野郡約3万9千石、直入郡約3万石、大分郡の約350石を合わせて約7万石が岡藩の表高となった。秀成は、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属したため徳川家康より所領を安堵され、一度の移封もなく廃藩置県まで存続した。 (wikipedia・岡藩より)]
西郷山公園
[当地一帯は江戸時代は豊後竹田城主・中川氏(岡藩)の抱え屋敷であったところであり、特に当家の回遊式庭園は名所として当時の地誌にも載っており知られていた。その後明治時代になって西郷隆盛の実弟・西郷従道が兄隆盛の再起を願って当地付近を購入した。しかし、西南戦争により隆盛が他界したためそれが実現されず、当地は従道自身の別邸として利用されることになった。当地にはフランス人でお雇い外国人の土木建築技師レスカスの設計による洋館と書院造りの和館が並んでいた。
その後西郷家は1941年に渋谷に移転した為、当時の鉄道省(戦後の日本国有鉄道)の手に渡った。また第二次世界大戦による空襲により和館が焼失するなど次第に西郷邸があったころの面影は薄くなっていった。なお残された洋館は1963年に愛知県犬山市にある明治村に移築され、現在は国の重要文化財に指定されている。
第二次世界大戦終了後、1950年代には日本プロ野球の国鉄スワローズ選手合宿所として使用されたこともあったという。
その後、邸宅跡地の一部分が公園として整備され、当地付近の通称であった「西郷山」(西郷従道にちなんでいる)の名を付した西郷山公園として1981年5月28日に開園し、現在に至っている(なお、かつて西郷邸の和館や洋館があった場所は近接してある菅刈公園付近にあたる)。
西郷山の名の通り、台地の斜面を利用した高低差のある公園で最上部からの展望台からの眺めがよいことでも知られる。展望台からは冬の晴天時には富士山が望める。 (wikipedia・西郷山公園より)]
「歴史を訪ねて 西郷山の従道邸 目黒区」「菅刈山公園(西郷従道邸跡) – FC2」
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図(天保十三年・1842年)」(コマ番号7/7・絵図中央下に「中川修理太夫抱屋敷」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [4]拾六中(弘化三年・1846年)」(コマ番号5・地図中央右上方向に中川修理大夫抱屋敷が描かれ、抱屋敷上に三田用水が描かれています。)
「6 荏原郡目黒村全図」(リンクページの地図をクリックすると拡大画面が表示されます。)
「西郷山公園 – Google Map 画像リンク」、「菅刈公園 – Google Map 画像リンク」、「西郷従道邸跡 – Google Map 画像リンク」
カメラ南方向が西郷山公園で、カメラ西北西方向・中央の道路が三田用水跡になります。