マーカーは鹿島藩鍋島家下屋敷跡です。
関連リンク – 鹿島藩鍋島家上屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP505・コマ番号296/553に鹿島藩屋敷の変遷について記載されています。「下屋敷 白金 芝区白金志田町」がこの地になります。
鍋島直賢
[鍋島 直賢(なべしま なおさが)は、肥前鹿島藩の第12代藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の実弟。諱の読みは「なおかた」ともいわれる。
天保5年(1834年)6月11日、佐賀藩第9代藩主・鍋島斉直の二十八男として佐賀城で生まれる。天保10年(1839年)に第11代鹿島藩主・鍋島直晴(従兄にあたる)が死去したため、天保11年(1840年)5月28日にその養子として家督を継いだ。藩政では水害などの天災に悩まされ、その救済における出費などで財政難に陥った。このため、本家の藩主で実兄である直正の介入を招き、嘉永元年(1848年)9月14日には直正の命令で若くして強制隠居させられ、後継者には養子の直彬(先々代藩主であった直正・直賢の実兄直永の子)が迎えられた。
以後、直賢は病気療養として花岡山の別荘で過ごすことになり、安政6年(1859年)9月23日に死去した。享年26。 (wikipedia・鍋島直賢より)]
鍋島直彬
[鍋島 直彬(なべしま なおよし)は、天保14年12月11日(1844年)、第10代藩主・鍋島直永の三男として生まれる。嘉永元年(1848年)9月14日、第12代藩主の鍋島直賢(直永や直正の弟で叔父にあたる)が本家の鍋島直正によって強制的に隠居させられ、その養子として数え6歳で家督を継いだ。
嘉永6年(1853年)にロシアのプチャーチンが長崎に来航した際には、警備を行なっている。また、藩校・徳譲館を弘文館と改名して文武を奨励するなどした。万延元年12月(1861年)、従五位下・備前守に叙位・任官する。幕末期は佐賀藩と行動を共にし、直正の命令で朝廷との交渉役を務めている。文久3年(1863年)11月19日に備中守に遷任する。慶応2年(1866年)には幕府に追われていた副島種臣を庇護したりしている。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で鹿島知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で知藩事を免官されて東京に移った。
明治5年(1872年)8月からアメリカ視察を行なっている。明治9年(1876年)には侍従に任じられ、明治天皇の側近として仕えた。 (wikipedia・鍋島直彬より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/5・絵図四つ切左上、新堀川左に鍋島安次郎(鍋島直賢)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図四つ切右下に鍋島熊次郎(鍋島直彬)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は四の橋市場前で、カメラ東北東方向一画が鹿島藩鍋島家下屋敷跡になると思います。