寺内公園(行元寺跡)

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マーカーは寺内公園です。

寺内公園(行元寺跡)
[寺内公園(じないこうえん)の由来
 この「寺内公園」」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。
 江戸中期天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行幸寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。)
 行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田(https://goo.gl/maps/CCLrbJGsmK52)に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、毘沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。
 文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。
 日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。
いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの「寺内公園」に託し、末永く皆様の思い出、憩いの場として大切に護り育てましょう。
  平成十五年三月吉日 新宿区]

[1783年(天明3年)10月、大橋富吉という農民出身の男が牛込肴町の行元寺前において親の仇を討ち取った。文人の大田南畝(蜀山人)は行元寺の境内に仇討ちの隠語碑を建て、のち行元寺が移転した目黒町谷戸西大崎町4丁目(現品川区西五反田4丁目)に現在も残る。この富吉を暉芳の道場が援助し、仇討ちの際に、岡田吉利(十松)ら暉芳の門人が助太刀していたことで、戸賀崎道場が脚光を浴びることになった。暉芳はこの顛末について『天明復讐美談』を書き残しており、巷間でも『敵討農家功夫伝』と題する実録本が流布した。  (wikipedia・戸賀崎暉芳より)]

[「牛込神楽坂行元寺境内にて親の仇討ありき。此の事を豊竹肥前座にて、浄瑠璃狂言に作る。松平一学知行所、下総相馬郡早尾村、名主八右衛門組下百姓富吉、心願の意趣左に申上候といふ書付懐中す。敵の首を切落したる者は此の富吉、討たれたるものは同村百姓甚内と云うものなり。富吉(本年28歳)当時剣道指南戸ヶ崎熊太郎召使初太郎と云う。甚内、当時御手先浅井小右衛門組二宮丈右衛門(本年47歳)」(『武江年表』・天明3年〔1783〕10月8日の項)  (「/江戸坂見聞録/神楽坂」より)]

かぐらむら: 今月の特集 : 神楽坂、行元寺境内での百姓による仇討事件

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 小日向絵図」(絵図上中央付近に行元寺が描かれています。)

カメラ東方向が寺内公園で、公園碑先に「寺内公園の由来」の案内板があります。

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