マーカーは本多横丁です。
本多横丁
[その名の由来は、江戸時代中期より明治時代初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、碌高1万5百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したが、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
昭和60年(1985)7月 本多横丁商店会 (「東京都新宿区の歴史 本多横丁」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 小日向絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図左上・神楽坂の下に本多對馬守と描かれています。)
「国立国会図書館デジタル資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「十一之二[3](天保元年・1831年)」(コマ番号2/3・絵図中程、神楽坂の右に本多修理と描かれています。)、「 十一[203]」の「コマ番号184/203」・「享保七寅年(1722年)之形」の神楽坂右に「本多因幡守」、「コマ番号185/203」・「寛政四子年(1792年)之形」と「コマ番号186/203」・「当時之形」の神楽坂右に「本多修理」と描かれている。
カメラ北東方向が本多横丁で、横丁右に本多修理屋敷があった。
カメラ南南西方向が本多横丁です。