白銀公園(中山備後守屋敷跡、渡部温邸跡)

マーカーは白銀公園です。

[「旧幕臣悉く各所に流離転滞し、其の居宅皆変じて草木の藪となり、諸侯大中小の邸宅も荒廃を極め」と語られているように(『東京百年史』第二巻)、幕臣たちが去った東京は荒廃した。家屋を売ろうにも買手がつかず、湯屋の焚き物としてさえ買人のないありさま、とも言われる(同上)。
一八七一(明治四)年夏、そうした東京に、渡部温は戻って来た。住んだところは「東京府管下第三大区五小区新小川町一丁目弐番地」、神田川に今も架かる隆慶橋のたもとで、幕臣として開成所に勤務したときに住んだ軽子坂のすぐ近くであった。
そして、あまり気の進まない宮仕えに終止符をうった温が、終の棲家と定めた場所が、御殿山と言われた高台の地、現在の白銀公園のある牛込白銀町二七番地(のち二九番地に表示変更)、水戸藩・附家老中山家(中山信徴)の屋敷跡であった。
一八八三(明治一六)年陸軍省測量の東京市街地図には「渡部邸」がはっきり見える。神楽坂通りの側は、通寺町の名のとおり、寺がふさいでいる。白銀公園から神楽坂通りに直交する現在の路は、これらの寺が区画整理のため他に移転して、明治末年にできた。この路が「成金横丁」などと称されるようになるのは、「成金」が流行語になった大正期以後のこと、神楽坂が花街として繁栄するのも日清戦争以後である(『新宿区史』)。
要するに渡部温が終の棲家と定めた場所は、今にその名が残る東側の瓢箪坂を登りつめた先にある閑静な場所であった。温はここで、これまでとは異なるもう一つの人生を生きる決意をしたのではなかろうか。
彼は約三千四百余坪のうち、東南に面したおよそ三分の一を自宅用に使い(現在の白銀公園の場所)、残る二千三百坪に十数軒の家作を建てて、生活の基盤を固めた。  (「第九回 落ち着く先は、神楽坂 | 神楽坂の情報誌「かぐらむら」」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十一之二(天保五・1834年)」(コマ番号2/3の中央右下方向・寺地に囲まれるように中山備後守屋敷中山備前守と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 小日向絵図(嘉永五・1852年)」(絵図中央上方向に中山備後守(中山信守)屋敷が描かれています。)

東京図測量原図 : 五千分 – 東京府武蔵国牛込区神楽町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右上・白銀町左に渡部邸が描かれています。)

カメラ西方向が白銀公園です。

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