関口水道町(関口製造所)

マーカーは旧関口水道町案内板です。

関口水道町(関口製造所)
[旧 関口水道町(せきぐちすいどうちょう)
(昭和41年までの町名)
昔関口村の内であった。鷹匠細田加右衛門(たかしょうほそだかえもん)他2名の知行所(ちぎょうしょ)であったが、延宝年間(1673~81)以前から村方(むらかた)町屋となった。
 貞享(じょうきょう)2年(1685)町屋が許され、町奉行(まちぶぎょう)・代官(だいかん)両支配となった。そして、武蔵野国豊島郡(むさしのくにとしまぐん)関口水道町となる。
 明治5年、造兵司(江戸末から大砲製造所-明治2年政府の東京関口製造所と改称、同年竹橋内吹上(ふきあげ)に移転、砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の前身)や武家屋敷地その他を併せた。
 明治11年、小石川区に編入した。
 江戸時代に水番所があり、大洗堰(おおあらいせき)の神田上水(かんだじょうすい)の水門の差蓋揚卸(さしふたあげおろし)の役を勤めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので、水道町の町名ができたといわれる。  文京区   (「旧 関口水道町(せきぐちすいどうちょう) – Monumento(モニュメント)」より)]

関口製造所
[関口製造所(せきぐちせいぞうしょ)は、江戸幕府幕末に設置した兵器製造工場である。「関口大砲製造所」とも呼称された。明治政府に官収され、その設備は東京砲兵工廠へ引き継がれた。
文久2年(1862年)2月、関口水道町で新工場の建設が開始され、12月には小栗忠順が銃砲製造の責任者に任ぜられると、製造所頭取には武田斐三郎が任命され、同時に友平栄などを製造技術者として登用した。この場所が選ばれたのは、砲身に咆腔を錐であける錐鑚機の動力として水車を用いるため、水利の便が良かったからである。その外の設備として鋳造所が建設され、咆腔に螺旋状の溝を切る施条機などの機械類はオランダフランスから輸入された。文久3年(1863年)に操業を開始し、元治元年(1864年)には小栗より幕府大砲製造事業の合理化が図られ、湯島大小砲鋳立場を廃止して関口製造所に統合された。
関口製造所で製造された大砲は青銅製であったが、当時の欧州では鉄製大砲の時代を迎えていた。そのため、元治元年(1864年)、関口に反射炉を建設することが計画されたが、低湿地のため反射炉を置くには不適であった。他に適地を求めたところ滝野川村(現在の酒類総合研究所東京事務所所在地)に建設を決定し、武田斐三郎が責任者となり工事が進められた。  (wikipedia・関口製造所より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 小日向絵図」(絵図右下に関口水道町が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [18]拾九利」(6/7・絵図中央に江戸川上に関口水道町年貢町屋が描かれています。)