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「国立国会図書館デジタルコレクション – 神田上水大絵図 : 貞享ノ頃」、「神田上水南方絵図」
「東京都立図書館 – 神田上水絵図カンダ ジョウスイ エズ 神田上水繪圖 全(題簽)」
井の頭池(井の頭公園)、善福寺池(善福寺公園)、妙正寺池(妙正寺公園)、善福寺川合流、淀橋、田島橋、妙正寺川合流、姿見橋(面影橋)、大滝橋、江戸川公園、文京総合福祉センター(神田上水旧白堀跡)、神田上水の説明板、水戸徳川家上屋敷跡(小石川後楽園)、水道橋、上水樋跡(御茶ノ水懸樋)
高松藩松平家上屋敷跡(神田上水樋管)、小川町定火消屋敷跡(神田上水樋管)、護持院ヶ原(神田上水樋管)、騎兵当番所(神田上水樋管)、小川町錦小路(神田上水樋管)、神田橋案内板(神田上水樋管)、大手前歩兵屯所(神田上水樋管)
伝馬町牢屋敷跡(神田上水樋管)、川口橋跡(浜町川跡・川口橋周辺神田上水樋管)、北新堀御船手組屋敷(神田上水樋管)
[神田上水は井之頭池(三鷹市井の頭1丁目井の頭恩賜公園内)を発する上水である。いつ頃から井之頭池を水源とするようになったかのは定かではないが、慶長年間以降と推定されている。井之頭池を見立てたのは大久保藤五郎と内田六次郎の二人が挙げられている。どちらかであるかは断定できないが、内田家はその後、1770年(明和6年)に罷免されるまで代々神田上水の水元役を勤めている。
井之頭池は古くは狛江といわれ、かつては湧水口が七ヶ所あったことから「七井の池」とも呼ばれていた。井之頭と命名したのは2代将軍徳川秀忠もしくは3代将軍徳川家光ともいわれているが、家光が命名したという説が有力である。
家光が「井之頭」と刻んだとされる辛夷の樹皮は大盛寺が宝物として池の近くの弁天堂に所蔵していたが、1924年(大正13年)の火災で弁天堂とともに焼失してしまい現存していない。また、井之頭池の湧水を「御茶ノ水」というがこれは徳川家康が名付けたとされている。家康が慶長年中にこの地を訪れ点茶の水としてこの湧水を使ったことから命名したという(「御茶ノ水」と呼ばれる湧水口(井の頭恩賜公園)・wikipedia-photo)。
井之頭池を起点とした神田上水は、途中補助水源として、善福寺池を水源とする善福寺川(善福寺川(右)との合流地点(東京都中野区)・wikipedia-photo)と淀橋で玉川上水の分水(神田上水助水堀)、更に妙正寺川(妙正寺川(右)との合流地点(東京都新宿区)・wikipedia-photo)を併せて小石川の関口大洗堰に至る。
関口大洗堰は流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園、〔文京区後楽1丁目〕、wikipedia-photo)方面に流し、右側を余水として江戸川と呼ばれるようになった(かつての「平川」は関口から飯田橋まで江戸川、飯田橋から浅草橋までを神田川と改称した。1965年(昭和40年)の河川法改正で江戸川の名称を廃し、神田川に統一にした。)。関口大洗堰が設置された年代はわかってはいない。『水戸紀年』によると水戸藩邸に上水が引かれるようになったのが1629年(寛永6年)とあるから、それ以前に建設されたのではないかと思われる。堰の規模については『新編武蔵風土記稿』に紹介されている。
『堰 神田上水ト江戸川ノ分水口ニアリ。大洗堰ト号シ、御普請所ナリ。石ニテ築畳ミ、大サ長十間(約18m)、幅七間(約12.6m)ノ水、水口八尺余(約2.42m)、側ニ水番人ノ住セル小屋有リ。』
この記述から巨大な石作りの建造物であったことが窺える。この大洗堰があったため関口という地名が起こったという。関口大洗堰は流水が大滝となって落ちてくる様子が壮大で『江戸名所図会』に「目白下大洗堰」として紹介されるほどの名所であった(『江戸名所図会』に「目白下大洗堰」として紹介された関口大洗堰 ・wikipedia-photo)。1937年(昭和12)に江戸川の改修の際に取り壊され、かつて堰があった跡には大滝橋が架けられた(関口大洗堰跡と大滝橋(江戸川公園)・wikipedia-photo)。付近の江戸川公園(文京区関口2-1)にわずかに石柱の一部が保存されているのみである(関口大洗堰の取水口の石柱(江戸川公園)・wikipedia-photo)。
水戸屋敷に入った上水は邸内の飲料水や生活用水及び庭園の池水に使われ屋敷を出る。水戸屋敷を出た上水は御茶ノ水の懸樋(水道橋)(『江戸図屏風』に描かれた水道橋。橋の下を通っているのが水道。・wikipedia-photo、水道橋駅附近にある神田上水懸樋跡の石碑・wikipedia-photo)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。そこから三手に分岐し、一つは神田橋を経て、道三堀北側の大名屋敷に、もう一つは神田川北岸の武家地に、そして最後の一手は神田川南岸の武家地及び町人地に給水する。
神田上水を始めとする江戸の上水道は水の落差を利用して給水する「自然流下方式」と呼ばれる方式であった。
神田上水は井之頭池を水源としている。その後、各支流と合流し関口大洗堰を経て江戸市中に給水している。井之頭池から関口までは野方堀と呼ばれた開渠の堀で水を運んだ。関口から水戸屋敷までも開渠の堀で、こちらの方は白堀または素堀と呼ばれ両岸には石垣が築かれてあった。
水戸屋敷を出て御茶ノ水懸樋(万年樋)で神田川を渡り、武家地や町人地を給水していた。給水を行うために樋と枡を使って、水道網を形成していた。
樋は送水菅であり、石樋と木樋が一般的で他に瓦樋・竹樋などの種類もあった。
石樋は幹線として使われていた。1978年(昭和53年)に霞ヶ関の外務省の地下から発掘した石樋は玉川上水の幹線として使用されていたものである。側壁は石を積み上げて作られていることから「石垣樋」と呼ばれていた。大きさは外径寸法が1250mm×1300mm、内径寸法が850mm×750mmであった。石と石との間には粘土をつめ込み、漏水を防いでいた。この発掘された玉川上水の石樋の模造品が文京区本郷にある東京都水道歴史館に展示されている。神田上水の使用された石樋も玉川上水とほぼ同じ構造であった。1987年(昭和62年)に文京区本郷で神田上水の石樋が発掘された。この発掘された石樋(石垣樋)の一部が東京都水道歴史館と隣接している本郷給水所公苑に移築され復元されている(本郷給水所公苑(東京都水道局)に保存されている神田上水の石桶・wikipedia-photo)。
明治維新後も神田上水は東京市民の飲料水であることは変わらなかった。明治新政府は1868年(慶応4年)6月に神田・玉川両上水の管理を新設された市政裁判所に委ねた。その後同年8月に東京府の開設ととも府の所管となった。だが、水道料金の徴収は江戸期の上水組合が消滅したため、移管当初は大きく混乱した。
しかし、水道料金の徴収よりも深刻だったのは神田上水の汚染が進んだことである。江戸上水道は構造が脆いため度々修復しなければならない。江戸から明治と時代が移り変わったため、上水の管理体制が整うまでには時間を要した。そのため、上水の修復が疎かになってしまい汚染が進行する起因の一つとなった。ましてや江戸上水道は浄水を行っていないため良水を安定して供給することができなかった。
これに追討ちをかけたのが1886年(明治19年)に起きたコレラの大流行である。1858年(安政5年)に初めてコレラが江戸で発生して以来毎年のように感染者をだしていたが、この年の流行は最大のものであった。 相次ぐコレラの流行によって、改良水道の創設が急務となった。改良水道の計画は以前から為されていた。1874年(明治5年)に内務省土木寮雇オランダ国工師ファン・ドールンが東京水道改良意見書を提出した。同氏は翌年改良設計書提出している。
改良水道は玉川上水の導水路を利用して多摩川の水を新しく建設される淀橋浄水場に導く。淀橋浄水場で水を沈殿濾過させた後、ポンプあるいは自然流下で鉄菅を使って東京市内を給水するという計画であった。 改良水道の工事が開始されたのは1892年(明治25年)である。1898年(明治31年)には大部分が完成した。同年12月に日本橋及び外神田を除く神田両地区に通水が開始された(後に日本橋、外神田にも通水されている)。そして、1901年(明治34年)6月に神田上水の給水は完全に停止し、廃止されるに至った。 (wikipedia・神田上水より)]