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「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
[多摩川の筏流し
多摩川の筏流しは、江戸時代の中期以降に主として行われ、幕末から明治三十年代にかけて最盛期を迎えたといわれ奥多摩の山々から切り出したスギ・ヒノキなどの木材を筏に組み、筏乗りが棹さして河口に近い六郷羽田の筏宿まで川下げし、そこからは船積みか、引筏で本所・深川などの材木問屋へと運んだ。
筏流しは、秋の彼岸(九月二十ニ・三日ごろ)から翌年のハ十八夜(五月一・二日ごろ)までと決められていたが、玉川上水の取入口がある羽村の堰を通過できたのは、月のうち五日・六日・十五日・十六日・二十五日・二十六日の六日間に限られていた。
筏乗りは、羽村の堰を過ぎるど拝島か立川で泊まり、翌日は府中か調布に、三日目が二子泊まりで、四日目に六郷に着いた。
現在の多摩川原橋(Google Maps)の下流、約百メートルの堤防道路脇にある二本の松(Google Maps・https://goo.gl/maps/Ri7zAFRHZNm)は、調布に泊まる筏乗りが筏をつないだ松ということで、「筏の松」と呼ばれている。この松はまた別名「舟つなぎの松」ともいう。
筏宿は、「筏の松」から二百メートルぐらい下流の旧鶴川街道の両側にあった。亀屋・玉川屋と呼ばれた二軒で、明治末年から大正期にかけてよく利用されていた。しかし、今はその跡もない。
筏乗りの服装は、印絆天に股引き、ワラジばきで、腰にサイナタ(鞘鉈)を結び付け、晴雨にかかわらず蓑と檜笠を身につけていた。
多摩川の筏流しは、大正の末ごろに急減し、鉄道やトラックなどの陸上輸送の発達とともに姿を消していった。
平成四年十月一日 調布市教育委員会 (「多摩川の渡し – Monumento(モニュメント)」より)]
[江戸幕府が開かれるに至って江戸は急激に膨張し、都市化していった。それに伴って木材利用の需要が続いた。木材利用に当たり、運搬する方法を河川を使い木材を筏にして運搬する方法が行われたのである。この秋川流域でも筏での運搬は盛んであったが、この筏の起源は古いものであるとされており、関東地方では戦国時代、後北条氏が領国の津久井地方から、相模川を利用して、木材、炭、穀物等を小田原へ運ばせたと言われている。古い時代における秋川谷の林業に関する資料がほとんど無いため、秋川の筏ながしがいつ頃始められたかは明らかでないが、前途のように、当初は江戸商人によって開発されたのではないかと思われる。
筏乗りこの筏流しは初め、「手山伐り」といって、自分持ちの山林の木を伐り、自分で筏に組んで多摩川をくだり、問屋に売却したもののようであり、次第に資力のある者が、他人持ちの山林を買って、筏で出材する「筏師」と言う地元木材業者が出現するようになった。この筏師は筏に乗って仕事をする人と勘違いされている事が多い。実は筏に関係した職人は2つに分かれていた。
筏組 – 土場筏師…木材を扱う元締め。木材業者を意味する
筏乗り – 実際に筏に乗り運搬をする職人。筏師に雇われている。上記に記載したように、筏師は木材業を営む経営者敵な存在で、それに従事するのが「筏乗り」や「乗り子」などと呼ばれていた。
ここで少し当時の筏流しの方法について記載しておこう。筏乗りの修行は十八、十九歳から始め、一年か一年半ぐらい先輩と同乗して見習い、二年ぐらいで一人前になる。そして六十歳ぐらいになると大抵引退したらしい。
元締めの筏師に雇われた筏乗りは、杣角(そまかく)や丸太を筏に組み、これに乗って木材問屋か、筏宿へ荷物を引き渡すまでの労働に従事した。※杣角(そまかく)とは丸太を斧で荒削りした物
筏に乗る時には、筏乗りの背中に元締めの印を大きく染めた印ばんてんを着てそろって出かけたので、遠くからでもわかるような目印となった。しかし筏を運んでいる途中で、橋や堤防を壊すこともあったので、筏乗りにとっては目印は邪魔になったので、途中で印ばんてんを裏返しに着るのが普通であったらしい。
筏組は切り出してすぐには出来なかった。岩場が多く川幅の狭い上流の川では筏組が出来ない為まずはそのまま流し川幅の広い地域の場所で筏組をおこなった。木材をそのまま流す事を「管(くだ)流し」筏組をする場所を「土場」と言った。このように仕事の配分がきちんとされており、場所によって従事する人も決まっていて組織化されていたようだ。 (「歴史 – 秋川木材協同組合」より)]