与板藩井伊家下屋敷跡

マーカーは与板藩井伊家下屋敷跡です。

関連リンク – 与板藩井伊家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP536・コマ番号312/553から与板藩屋敷の変遷について記載されています。P540・コマ番号314/553「抱屋敷 芝大佛前」がこの地になります。

井伊直経
[井伊 直経(いい なおつね)は、寛政11年(1799年)2月25日、越後与板藩6代藩主・井伊直朗の七男として江戸で生まれる。文政9年(1826年)に先代藩主の直暉が死去する直前に養嗣子となり、文政10年(1827年)7月13日に跡を継いだ。大坂加番を務めた。有能な藩主で、民政に尽力した。特に三条地震が起こったときなどは善政を行なって復旧に尽くしている。また、仏教に対して信心深かったことから、西本願寺与板別院や与板八幡宮、徳昌寺などを建設した。これらの事績から「凱悌の君」と称されている。
安政3年(1856年)6月30日、江戸にて58歳で死去し、跡を長男の直充が継いだ。  (wikipedia・井伊直経より)]

井伊直充
[井伊 直充(いい なおあつ / なおみつ)は、天保9年(1838年)3月1日、8代藩主・井伊直経の長男として与板で生まれる。安政3年(1856年)、父の死去により家督を継ぎ、同年12月に叙任された。藩政では藩士子弟に学問を奨励し、学者を藩に招聘している。安政7年(1860年)に藩校・正徳館を開館した。同年3月3日の桜田門外の変で宗家の井伊直弼が暗殺されると、連座で処罰されている。文久2年(1862年)9月24日、江戸で死去した。享年25。跡を養嗣子で直弼の子の直安が継いだ。  (wikipedia・井伊直充より)]

井伊直安
[井伊 直安(いい なおやす)は、嘉永4年(1851年)2月11日に彦根藩主・井伊直弼の四男として江戸で生まれたとされているが、弘化4年(1847年)に生まれたという説もある。文久2年(1862年)9月23日、先代藩主の直充が死去する直前に養嗣子となり、同年に養父が死去したために跡を継いだ。元治元年(1864年)12月に叙任する。慶応3年(1867年)2月に右京亮に叙任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では官軍に与して功績を挙げた。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行った。また戊辰戦争の影響で一旦閉校となった藩校・正徳館を再興し、その際藩士の子弟に限らず広く領民に就学を呼びかけ「極貧者でも良し。衣食住に欠ける者は校内に寄宿しても良い」と藩民皆学を奨励した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により与板県となると、免官されて東京へ移った。
慶應義塾を卒業し、明治5年(1872年)12月20日、兄の井伊直憲(元彦根藩主)と共に欧米を訪問する。  (wikipedia・井伊直安より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切左上・薩州殿下屋敷中央右に井伊兵部少輔(井伊直経)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図四つ切右下、松平大隅守下屋敷の中央右に井伊兵部少輔(井伊直経)下屋敷が描かれています。この場所の上半分は、弘化三年・1846年以降分割され日出藩木下家下屋敷になると思われます。)

東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切左下・高輪南町右下の17番の下半分が与板藩井伊家下屋敷跡とおもわれます。)

カメラ位置はさくら坂で、この周辺が与板藩井伊家下屋敷跡になります。