丹波亀山藩松平(形原)家芝下屋敷跡

マーカーは丹波亀山藩松平(形原)家下屋敷跡です。

関連リンク – 丹波亀山藩松平(形原)家上屋敷跡丹羽亀山藩松平(形原)家本所下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP490・コマ番号289/553から亀岡藩(丹波亀山藩)屋敷の変遷について記載されています。P493・コマ番号290/553「下屋敷 芝田町五丁目 芝区田町五丁目」がこの地になります。

松平信義
[松平 信義(まつだいら のぶよし)は、文政7年(1824年)、亀山藩分家の旗本・松平庸煕の長男として誕生。本家の丹波国亀山藩第6代藩主・松平信豪の養子となり、天保14年(1843年)2月9日の養父の隠居により家督を継いだ。
桜田門外の変坂下門外の変などで幕末の世情不安な時期にあり、信義は養父・信豪が井伊直弼の姻戚であった関係から安政の大獄に協力した経緯があり、水戸藩浪士らのテロの標的とされ、文久元年(1861年)6月、水戸藩士・落合慵之助は信義登営の際に殺害を企てている(未遂、落合は捕縛のうえ今治藩預け)。
また、生麦事件とその賠償金問題、薩英戦争などの事後処理でイギリスとの交渉にあたっている。文久2年(1862年)5月10日の攘夷決行の前後には病気と称して登営しないなど、在任末期になると責任回避が目立つようになり、文久3年(1863年)には辞任する。
慶応2年(1866年)、家督を養子・信正に譲って隠居し、直後の1月29日に死去した。享年43。  (wikipedia・松平信義_(丹波亀山藩主)より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央右方向・久留島安房守上屋敷左に松平紀伊守(松平信義)下屋敷が描かれ、その下、道路下にも下屋敷が描かれていますています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/2・絵図中央、松平紀伊守(松平信義)下屋敷が描かれています。)

カメラ北西方向、東京三田再開発プロジェクトオフィスタワー建設地内及び元和キリシタン遺跡周辺が丹波亀山藩松平(形原)家下屋敷跡になると思われます。また、カメラ南南東方向三田3丁目MTビルも下屋敷跡に建つと思われます。