会津藩松平家下屋敷跡(慶應義塾中等部・女子高等学校、ハンガリー大使館)

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会津藩松平家下屋敷
[女子高・中等部の敷地は、江戸時代会津藩主松平肥後守二十三万石の下屋敷があった。会津藩が三田に下屋敷を賜ったのは万治元(一六五八)年五月十五日のことで、初代藩主保科正之(まさゆき)が四十八歳の頃であった。その面積三万二千九百七十二坪という広大なもので、現在の女子高・中等部の敷地だけでなく、西は綱町グラウンドを含んで古川の河岸まで、東は三井倶楽部の南半分を含んで綱坂までが敷地であった。
 当時「綱が居た跡へ蝋燭取りひろげ」という狂句があり、これは渡辺綱出生の地と伝承されていた三田綱町が、蝋燭を名産とする会津侯の下屋敷となったことを謳ったものである。また、古川に掛かる三之橋は、肥後守の下屋敷脇にあるので肥後殿橋とも呼ばれていた。
 最後の九代目藩主松平容保(かたもり)は、美濃高須藩松平義建の七男で、弘化三(一八四六)年に伯父にあたる会津藩主松平容敬の女婿となり、嘉永五(一八五二)年の容敬の死により会津藩主となった。明治新政府の発足に伴い、それまで諸国の大名が持っていた上屋敷、中屋敷、下屋敷の三つのうち一つを残してあとは上地させる旨の取決めがなされ、多くの大名屋敷が華族や軍人、官吏、実業家に払い下げられた。会津藩下屋敷も、徳川伯爵家(旧御三卿)や鍋島子爵家(旧肥前鹿島藩)、蜂須賀侯爵家(旧徳島藩)などの邸宅となった。  (「慶應義塾機関紙|三田評論 – 慶應義塾大学出版会」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切右上に「松平肥後守(松平容敬)下屋敷」が描かれ、その左上古川に架かる三之橋 肥後殿橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/2・絵図中央右上に松平肥後守下屋敷と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 品川芝筋白金麻布. [1]」(コマ番号2/8・絵図四つ切右下、松平肥後守下屋敷が描かれています。)

日文研所蔵地図 – (内題)東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)明治16(1883)」(地図四つ切右下・三田綱町に蜂須賀邸が描かれ、その南側の庭園部分が会津藩松平家下屋敷跡になります。)

東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図中央・三田綱町の字「田」「綱」「町」のエリアが会津藩松平家下屋敷跡になります。)

ハンガリー大使館 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向が綱坂にあるハンガリー大使館です。