光福寺(子安地蔵)

マーカーは光福寺です。

光福寺(子安地蔵)
[幽霊地蔵のある浄土宗開運山来迎院 光福寺は1879(明治12)年(芝区史では明治13年)、現在地にあった海峰山蓮乗院 相福寺と本芝(現在の4丁目東京女子学園裏手)にあった西応寺の末寺である紫雲山来迎院 源光寺が合併し、源光寺の光、相福寺の福をとって「光福寺」の寺号としました。
この合併について現住職のお話では、
「廃仏毀釈の影響から同一宗派(浄土宗)であったため合併を余儀なくされた。」
としています。
1940(昭和15)年[皇紀二六〇〇年]に作られた芝区史では、
光福寺
元相福寺と称したが、明治13年本芝一丁目の源光寺を合併して今の名に改めた。寺内に幽霊地蔵なるものがあって、「お化寺」 の異名で聞こえている。
としています。  (「Blog – Deep Azabu: 光福寺の幽霊地蔵」より)]

[高輪消防署二本榎出張所のレトロな建物が面した二本榎交差点を過ぎ、高野山東京別院、日本基督教団高輪教会を見て進むと、左手に光福寺が見えます。光福寺にはこんな怪談が残っています。
 江戸の昔のことです。二本榎にある飴屋に毎晩赤ん坊を連れた若い女性が飴を買いにきます。雨でも傘をさしていないので不思議に思った飴屋の主人が、ある日母子の後をつけてみたところ、寺の中に入っていきました。数日後、今度は住職とともに後をつけていくと、地蔵の前にたどりつきました。住職がこの地蔵を毎日供養すると、不思議なことに母子は現れなくなったということです。
 この地蔵は品川沖からあがり、死んだ母親に代わって子どもを育てたという言い伝えがあり、「子安地蔵」として境内に祀られています。昔からよくある飴買い幽霊の伝承話と結びつきゆうれい地蔵と呼ばれるようになったのは、地蔵がまるで岩から浮き出てきたような、ちょっと不気味な姿にみえるからでしょうか。  (「光福寺のゆうれい地蔵」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」(絵図中央左上方向・高野寺の左方向に相福寺(現光福寺)が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 品川芝筋白金麻布. [1]」(コマ番号3/8・絵図中央右方向「高野寺」の左方向に「相福寺(現光福寺)」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号3/7・絵図中央付近「松平大和守」上に「相福寺(現光福寺)」が描かれています。)

光福寺 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向が光福寺山門です。

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