佐土原藩抱屋敷跡(六行会ホール)

マーカーは六行会ビルです。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。絵図反転して四つ切右下、南品川宿左上、武ケが佐土原藩抱屋敷です。その上の貴船は荏原神社になります。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図と現在の地図を比較すると、目黒川の流路改修の状況がわかります。

佐土原藩抱屋敷跡(六行会ホール)
[島津淡路守抱屋敷の場所は、現在の品川図書館六行会(りっこうかい)ホールなどが入る六行会ビル周辺にあたります。島津淡路守は日向国宮崎県佐土原藩の藩主で、石高2万7千石の外様大名です。佐土原藩の成立は豊臣秀吉天正15年(1587年)に島津氏15代にあたる島津貴久の子島津家久にこの地を与えたときでした。家久の死後、子の島津豊久が跡を継いだのですが、関ヶ原の戦いに敗れ戦死、領地は徳川家康に没収され、江戸幕府領となりました。しかし間もなく、家康は慶長8年(1603年)貴久の弟の子島津征久(以久)を藩主としました。以後11代にわたって治め、明治に至ります。佐土原藩の江戸屋敷は、上屋敷麻布三軒家町(現、港区西麻布)にあり、抱屋敷は南品川宿にありました。この抱屋敷はもともと島津家本家の鹿児島藩(薩摩藩)藩主島津家が所有していましたが、安永9年(1780年)に分家である佐土原藩8代藩主・島津淡路守久柄に譲渡されたものです。鹿児島藩と佐土原藩の関係は本藩と支藩の関係に近いものでしたが、佐土原藩は他の藩の支藩のように世継ぎがないときに本藩へ藩主を出すこともなく、本藩から藩政などに介入されることはあっても本藩に対して影響力を持つことはなかったようです。南品川宿内の抱屋敷の範囲を文化13年(1816年)の絵図からみると屋敷の北の端および西の端は蛇行する目黒川であり、南の端は海徳寺、東の端は貴布祢社(きふねしゃ)(今の荏原神社)で、広さは、約4000坪(1万3千平方メートル余り)ありました。大正から昭和初期に目黒川の改修で川筋がかつての屋敷地の南側となり、屋敷地の位置は北品川二丁目20・21番、31~33番、一部は南品川一丁目2番および目黒川の水面上にあたると考えられます。この屋敷は嘉永6年(1853年)、佐土原藩から豊後国大分県森藩藩主久留嶋家(くるしまけ)の家臣で医者の有冨(ありとみ)玄説(げんえつ)の所有となり、安政2年(1855年)には有富は南品川宿に売却しています。いわゆる南品川宿の宿抱地(しゅくかかえち)となり、百姓戻り地となったのです。この購入代金は266両で、資金は南品川宿の積立金を当てたものでした。この積立は弘化2年(1845年)より始められ、その目的は、伝馬役など宿場の負担軽減や飢饉・災害などの非常用のものでした。この土地を取得してまもない安政2年の大地震の際には、購入した土地に菰張小屋(こもはりごや)を建てて避難所としました。さらに安政4年(1857年)にはこの地に貸家を建てるために家作願が代官所にだされ、万延2年(1861年)に許可がおり、荏川町(えがわまち)と呼ばれる町が形成されました。このように所有者は幾度となく変わっていますが、この貸家はかつての鹿児島藩(薩摩藩)にちなみ、俗に薩摩屋敷と呼ばれていたと伝えています。この話のなかに出てくる宿抱地時代の宿積立組織の流れをくむのが財団法人六行会であり、現在に至っています。  (「品川の大名屋敷 第15回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」(絵図左下付近・目黒川の下に有馬中務大輔の屋敷地が佐土原藩抱屋敷跡(六行会ホール)になります。また、目黒川の位置は路線変更以前の位置になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下」(コマ番号5/5・絵図四つ切右下、目黒川左に嶋津淡路守抱屋敷と描かれています。また、目黒川の位置は路線変更以前の位置になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 品川芝筋白金麻布. [1]」(コマ番号3/8・絵図左下「抱屋敷」が佐土原藩抱屋敷跡(六行会ホール)になります。また、目黒川の位置は路線変更以前の位置になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号2/7・絵図四つ切左上に「島津又之進抱屋敷」と描かれています。)

カメラ南南東方向が六行会ビル(佐土原藩抱屋敷跡)です。

佐土原藩
[佐土原藩(さどわらはん)は、薩摩藩支藩とされる。藩庁は佐土原城宮崎県宮崎市佐土原町)。
1603年(慶長8年)、島津貴久の弟・島津忠将の子である島津以久が、日向国那珂郡児湯郡内で3万石を与えられて独立し、居館を佐土原に構えた。この地は元々島津一族の一人であった島津家久島津豊久親子の領地であったのが、関ヶ原の戦いで豊久が死去し無嗣断絶扱いになり、改めて江戸幕府より以久に与えられたものである。薩摩藩との関係は仙台藩宇和島藩あるいは盛岡藩八戸藩との関係に近いものであり、薩摩藩支藩ではないとの説もある。総本家に当たる薩摩藩からの度重なる介入を受けた事により、支藩と見なされることが多くなった。
廃藩置県の後、佐土原県・美々津県をへて宮崎県となり、鹿児島県との合併を経て、分県に伴い再度宮崎県に編入された。昭和天皇内親王貴子が嫁いだ島津久永は、旧佐土原藩の島津伯爵家出身である。  (wikipedia・薩摩藩より)]

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