品川宿本陣跡(聖蹟公園)

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マーカーは聖蹟公園です。

品川宿本陣跡(聖蹟公園)
[東海道五十三次の最初の宿である品川宿本陣跡。かつては北品川、南品川に1軒ずつあったが、江戸時代中期頃に南品川の本陣が廃止になり、北品川の本陣だけが残された。明治元年(1868年)、明治天皇が行幸された際には行在所となっており、跡地は聖蹟公園として整備されている。聖蹟公園の由来を記した記念碑などが建つ。 (「幕末関連史跡補完計画:史跡便覧:東京都品川区」より)]

[本陣の建物は、武家屋敷に見られるような、門、玄関、書院などがあり、大名行列駕籠長持ちなどの荷物を置く場所が設けられていた。大名の宿泊時には、その大名の名前を帰した関札を建て、紋の入った幕を掲げたという。品川宿の本陣はまた、明治維新大政奉還に際し、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所(あんざいしょ)にもなった。明治5年(1872)宿駅制度が廃止された後警視庁品川病院となり、昭和13年(1938)聖蹟公園となった。 品川の歴史めぐり-品川区教育委員会  (「品川宿本陣跡」より)]

[江戸幕府寛永12年(1635)の武家諸法度参勤交代を義務づけました。東海道を通った大名は、文政4年(1821)の記録では、全国の大名の総数262名のうち、153名で、58%をしめていました。さらに毎年下向する勅使・院使、あるいは将軍名代の大名や高家に、公用の旅行者などが加わり東海道の各宿を通ったので、宿場の負担は大変なものでした。なかでも品川宿は江戸に一番近い宿場なので、通行量が最も多かったところです。また、参勤交代の大名の帰国時期は、外様大名は4月、譜代大名は6月と決められていました。農繁期に集中していたため、助郷として人馬を出さなければならなかった周辺の村々には重い負担となっていました。この時期の品川宿は何日も連続して混雑し、問屋・本陣・旅籠屋ともに、最も多忙なときでした。さて、参勤のために江戸へ入る大名は、品川宿で小休憩し、それまでで旅装束を改めて江戸屋敷に入り、その日のうちに江戸に着いたことを老中その他の関係者に報告に出かけるのが一般的でした。  (「品川区ホームページ – 東海道品川宿のはなし 第1回」より)]

カメラ東北東方向が品川宿本陣跡(聖蹟公園)です。

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