品川橋

マーカーは品川橋です。

品川橋
[品川橋の今昔
この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次の一宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。
〔品川橋〕は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には〔境橋〕と呼ばれていました。また別に〔行合橋〕・〔中の橋〕とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。
〔品川橋〕がこれからも、品川神社荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています  平成3年4月1日 品川区   (「kasen.net 品川橋」より)]

[目黒川は、周辺に降った雨が集中する地形のため、少しの雨量でもすぐに溢れ、流域の村民は浸水や冠水などの被害にしばしば悩まされていました。なかでも記録的な洪水は、享保13年(1728)9月2日の大洪水で、連日の大雨によって目黒川が氾濫し大きな被害が出ました。このときの水かさは5尺程(約1.5メートル)になり、東海寺本堂にも水が上がったと記録されています。また寛延2年(1749)7月の大洪水では、南品川貴船明神門前付近で氾濫し、民家7棟と土蔵5棟が流されたとあります。この他にも多くの洪水の記録が残っています。 
 度重なる氾濫に備えての水害対策は、護岸工事でした。境橋(今の品川橋)より河口までは3尺から5尺(約1メートルから1・5メートル)の板を並べて杭を打った堤防がありました。この工事は江戸幕府の費用で行われています。しかし、居木橋付近の中流地域は、耕地や宅地がせばめられるとの理由で、水防土手を築くことは許可されなかったのです。
 この防備のために事前の策として行われたのが川浚えです。品川三宿や流域の村むら十カ宿村は共同で川岸に生い茂る竹木や雑草を払い、時には川岸にたまっている堆積土砂を浚渫して水流を改善しようとしたのです。
 氾濫の多かった目黒川は、大正から昭和のはじめにかけて川幅や川筋を替える大改修が行われました。  (「東海道品川宿のはなし 第11回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]

[北品川宿を南へ進むと目黒川に架かる橋、現在の品川橋を、江戸時代には「中の橋」「行逢(ゆきあい)橋」と呼んでいました。また、北品川宿と南品川宿の境の橋ということで「境橋」ともいいました。この橋の北品川宿西際には高札場(こうさつば)がありました。高札場とは、幕府や領主が決めた法度や掟書などを木製の板に書き、人目を引くように高く掲げておく場所のことです。  (「江戸から明治の品川名所 第5回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」(絵図左下付近・品川南本宿の上、目黒川に品川橋が描かれています。)

品川橋 – Google Map 画像リンク

カメラは品川橋上です。

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