問屋場跡

マーカーは問屋場跡(製菓実験社)です。

問屋場跡
[東海道 品川宿 是より南 南品川宿
日本橋から東海道を上り、目黒川を渡ると南品川宿に入ります。 この高札の場所は、脇本陣跡(現、城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)浜兵衛が営んでいました。 品川宿を南北にわけていた目黒川は、大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていました。 東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時が推定できます。 東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行なう宿場の役所問屋場跡(現、製菓実験社)で、 その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられました。 (品川宿場通り商会、城南信用金庫品川支店)  (「悠歩悠遊-品川宿」より)]

[宿駅としての「駅」
古代律令制の成立と共に駅伝制が導入され、各国の連絡のために東海道山陽道などの官道を整備し、駅(駅家)を各所に設けた。中国同様、駅は官道を騎乗で往来する人々に便宜を図ると共に、駅備え付けの駅馬によって早馬を走らせて手紙や荷物を運ぶ役割を果たした。大化の改新の際の大宝律令で重要事項として駅や駅に置く馬などの規定に触れており、実際に延喜式では各駅に配置する馬の頭数が事細かに記されている。また陸上に限らず、渡し場である「水駅」も存在した。
これら駅伝制による「駅」の制度は平安時代末期の律令制の弛緩に伴い衰退し、「駅」という言葉自体も「宿」「宿場」などに取って代わられた。しかし制度思想そのものは後々まで引き継がれ、江戸時代に整備された五街道制度にも生かされている。ここでも駅伝制の駅馬による伝令・輸送と同じく、宿ごとに置かれた飛脚が宿から隣の宿までを走り(時には早馬を使うこともあった)、そこで次の飛脚にバトンタッチすることで、当時としては脅威のスピードで伝書などを渡すことが行われた。 (wikipedia・より)]

カメラ南東方向角地が製菓実験社でかって問屋場があった。

カメラ位置は城南信用金庫 品川支店南西角で、カメラ東北東方向に「東海道 品川宿 是より南 南品川宿」の高札があります。

資料リンク
江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・品川駅品川汐干

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「品川駅」(4-17)、「品川駅解説-1・左ページ4行目から」(4-16)、「品川駅解説-1・左ページ中程まで」(4-18)、「品川汐干」(4-19)

「江戸遊覧花暦」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・品川駅二十六夜品川(説明文)

江戸遊覧花暦. 巻之1-4 / 岡山鳥 編輯 ; [長谷川雪旦] [画]」・「品駅二十六夜」(3-8)、「品川解説・左ページ1行目より」(3-7)

江戸名所之内 品川の駅海上