徳山藩毛利家高輪下屋敷跡

マーカーは徳山藩毛利家下屋敷跡です。

関連リンク – 徳山藩毛利家上屋敷跡佐伯藩毛利家下屋敷跡(元徳山藩毛利家下屋敷跡)

毛利元蕃
[毛利 元蕃(もうり もとみつ)は、文化13年(1816年)7月25日、江戸の今井谷屋敷にて第8代藩主・毛利広鎮の七男として生まれたが、4人の兄が早世し、兄の堅田元琦、福原元僴が養子として出たため世嗣となる。天保7年(1836年)12月、従五位下・山城守(のち淡路守)に叙任。翌天保8年(1837年)12月7日には父・広鎮が隠居し、その跡を継いだ。
嘉永3年(1850年)8月、未曾有の風水害に際し、あまねく封内の諸村を巡視して庶民の疾苦を慰め、併せて老人をいたわり、孝子や篤農家を賞する。『省耕集』はこの時の詩文を集めて出版したものである。嘉永6年(1853年)、黒船来航により、萩藩とともに浦賀の警備を任じられる。藩政においては、洋学や国学の奨励を行なって文治政策に努め、軍備においても洋式軍隊の編成を積極的に行なうなどしている。
幕末期の動乱の中では、本家の毛利敬親の補佐を務める。元治元年(1864年)7月、禁門の変により元蕃は、萩藩主・敬親、その世子(元蕃の弟)元徳長府藩主・毛利元周清末藩主・毛利元純らと共に官位を奪われ、益田親施・福原元僴・国司親相の3家老は徳山に幽閉された。次いで、益田・国司は徳山で、福原は元蕃の庶兄なので岩国へ護送して、それぞれ自刃が命じられる。
これ以後藩論は分かれ、幾多の士が難に殉じたが、やがて藩論は統一される。慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では、徳山藩の主力は小瀬川口に出陣し、幕府軍撃退に貢献した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても、鳥羽・伏見の戦いや東北、箱館戦争などで軍功を挙げた。これらの功績を賞されて、明治2年(1869年)6月には永世賞典禄8000石を与えられている。同年、版籍奉還により徳山知藩事となったが、明治4年(1871年)5月、廃藩置県に先んじて知藩事を辞任し、その所領を本家の萩藩に返還した。同年9月、婿養子の元功に家督を譲っている。  (wikipedia・毛利元蕃より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切左上・薩州殿下屋敷上に毛利淡路守(毛利元蕃)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央右、松平大隅守下屋敷上に毛利淡路守(毛利元蕃)下屋敷が描かれています。)

カメラ西方向道路を含む、両サイドが徳山藩毛利家下屋敷跡になると思います。