月の岬(沼田藩土岐家中屋敷跡)

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マーカーは亀塚公園です。

月の岬
[月の岬(つきのみさき、月の見崎とも)とは、東京都港区三田四丁目付近である台地の一角を指した地名であり、明治中後期には廃れた。江戸時代、潮見崎・袖が崎・大崎・荒蘭崎・千代が崎・長南が崎と並び七崎と呼ばれた。名前の由来にはいくつかの説がある。いずれもこの地からの月の眺めを称賛して名付けたとされる。
慶長年間、徳川家康が名付けた。
●三田台町一丁目の高札場付近を名付けた。
●元は伊皿子 大円寺_(杉並区)境内の名であったが、転じてそのあたりの名称とされた。
●三田済海寺の総名であった。
また秋元中納言により
秋ならば 月のみさきや いかならん 名は夏山の しげみのみして
と歌われた。
歌川広重が月の岬を描いており、これを宮尾しげをは品川区にあった八つ山であると比定している。この八つ山は幕末に台場を作るために崩されてその跡はない。 (wikipedia・月の岬より)]

亀塚公園
[亀塚公園(かめづかこうえん)は、東京都港区三田四丁目16番20号にある児童公園。隣に済海寺が、また敷地内に亀塚公園前交番(三田警察署管内)がある。
亀塚の名称の由来は複数伝えられている。
●円墳状の盛り土が存在することによるもの。但し、昭和46年に実施した港区教育委員会と慶應義塾大学文学部との合同調査では副葬品も含めて何も見つかっておらず、古墳であったとは判断できない。
●竹芝伝説の竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を土地の人が神にまつったものであるとされるもの。
縄文時代の住居跡が発掘されている。
江戸時代上野沼田藩土岐伊勢守、下屋敷明治維新後は皇族華頂宮家が日本橋浜町の元諏訪藩邸跡から本所に移る。大正13年同宮家断絶後は一時期内大臣邸となったが昭和8年建物は壊され、昭和20年には空襲により庭園は破壊される。その後公園として整備され昭和27年11月3日港区立亀塚公園として開園するに至る。
円墳上部には登ることができ、かつてはそこから360度の方角で東京全体を展望できたが(昭和30年代までは房総半島を視認することが出来たとのこと)、現在は御田八幡神社側に樹木が生い茂り遠望は望めない。華頂宮邸時代の外壁はそのまま存在し、公園を取り囲んでおり独特の雰囲気を醸し出している。
公園内にあるフラーレン型の遊戯具はもともと御田小学校内に敷設されていたものだが、昭和40年代に同所に移設されたものである。公園の南西部のフリー・スペースは、元は防衛庁の官舎群が存在したが、港区に払い下げられ、その維持・管理については地域住民が計画初期から参画するワークショップ方式が採用され運営されている。そうした試みにもかかわらず現在、平日では公園で遊んでいる子供の姿は殆ど見られず閑散としている。
亀塚公園・wikipedia・亀塚公園より)]

[亀山碑は、ここ亀塚の頂部にある幅2.2メートル、高さ1.4メートルの石碑で、上野国沼田城主土岐頼熈によって寛延3年(1750)に建てられたものです。
土岐家は明暦3年(1657)にこの地を下屋敷として拝領しました。詩文に秀でた大名といわれた頼熈は、この地が「更級日記」の竹芝寺伝説の故地であることや、塚の頂部に酒壷があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壷の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるためにこの碑を建立したと考えられています。
大名が邸内に建立した石碑として貴重なものです。
平成26年3月10日 港区教育委員会  (「1384/1000 亀塚公園(東京都港区) – 日本1000公園」より)]

「資料館だより」第71号(平成25年3月1日発行)PDFダウンロード3MB – 港区名所案内 月の岬・居皿子坂 (潮見坂)

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」(絵図中央付近に土岐美濃守が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図」(コマ番号4/5・絵図中央寺町右に「土岐伊豫守」と描かれています。)

(名所江戸百景・ 月の岬ファイル:100_views_edo_082.jpg)

亀塚公園 – Google Map 画像リンク

カメラは亀塚公園のストリートビューで、カメラ南東方向が亀塚公園です。この公園を含む一画が月の岬と言われていたようです。

カメラは亀塚公園のストリートビューで、カメラ北北西方向が亀山碑です。

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