マーカーは慶応義塾大学です。
関連リンク – 島原藩松平(深溝)家上屋敷跡(「明治大学発祥の地」碑)、島原藩松平(深溝)家抱屋敷跡(目黒千代が池跡案内板)
島原藩松平(深溝)家中屋敷跡(慶応義塾大学)
[ 三田・綱坂~(画像リンク)右側手前の長屋塀は、肥前国島原藩の松平主殿頭の中屋敷であった。明治維新後、人の住まなくなった荒れたこの屋敷に目を留めたのが福澤諭吉である。彼は明治4年に政府からこの屋敷を借り受け、慶応義塾大学を新銭座からこの地に移した。当初は島原藩の屋敷をそのまま利用していた。今にこの綱坂周辺は慶応義塾大学や高等部、中等部によつて占められている。右手上方の木柵側は伊予国松山藩の松平隠岐守の中屋敷。屋敷の庭は、赤穂四十七士のうち大石主税や堀部安兵衛ら10名が切腹した地でもある。討ち入りを果たした後、主君の菩提寺である泉岳寺に赴いた赤穂浪士たちを、幕府はその沙汰が決定するまで泉岳寺周辺の数カ所の大名屋敷に預けさせた。その預けおいた屋敷が、それぞれの浪士たちの切腹の地となったのである。明治時代は、日本財政のパイオニア、松方正義公爵(第4・6代総理大臣)の邸となる。後に、松方巌創設の十五銀行に譲渡され、今はイタリア大使館となっている。撮影している間も、イタリア人や、イタリア車がこの道を通過していった。左側は陸奥国会津藩の松平肥後守の下屋敷。その上方は、薩摩藩の支藩である、日向佐土原藩の島津淡路守の上屋敷。大正2年、三井家が賓客の接待所として三井別邸をこの地に建てた。現在「綱町三井倶楽部」として用いられている。 (「今昔散歩シリーズの発端」より)]
松平主殿頭中屋敷資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右中付近に松平主殿頭中屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(絵図中央右上に松平主殿頭下屋敷と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 品川芝筋白金麻布. [1](寛政六年・1794年)」(コマ番号2/8・絵図下中央右に、「松平主殿頭中屋敷」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図」(コマ番号4/5・絵図中央上に「松平主殿頭」が描かれています。)
カメラ位置は綱坂の坂下で、カメラ東方向が松平主殿頭中屋敷跡(慶応義塾大学三田キャンパス西門)です。