マーカーは柘榴坂上です。
薩摩藩島津家関連リンク – 薩摩藩上屋敷跡、芝さつまの道、薩摩藩装束屋敷跡(元鹿鳴館)、西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑、薩摩藩島津家下屋敷跡(常陸宮邸)、常盤松の碑、薩摩藩島津家下屋敷跡(八芳園)、薩摩藩島津家抱屋敷跡(東大井遊歩道)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP526・コマ番号307/553から鹿児島藩屋敷の変遷について記載されています。P527・コマ番号307/553「下屋敷並抱屋敷 高輪」がこの地になります。
久留米藩有馬家関連リンク – 久留米藩有馬家上屋敷跡、久留米藩有馬家下屋敷跡、柘榴坂(薩摩藩島津家・久留米藩有馬家下屋敷跡)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP698・コマ番号393/553から久留米藩屋敷の変遷について記載されています。P700・コマ番号394/553「下屋敷 高輪 芝区高輪南町」がこの地になります。
柘榴坂
[柘榴坂(ざくろざか)は東京都港区高輪三丁目と四丁目の境界に存在する坂。品川駅からちょうど西側に上る道で、第一京浜を挟んで品川駅高輪口(西口)の向かい側にある。坂を下ると、品川駅に出る。坂の途中には、グランドプリンスホテル新高輪がある。坂上には、都営バス「グランドプリンスホテル新高輪前」停留所が、坂下には、都営バス「品川駅前」停留所、ウィング高輪、複合商業施設「SHINAGAWA GOOS(シナガワグース)」がある。現在、都バス品93と品97がこの坂を通って運行している。
坂名の起源は伝わっていない。柘榴の木があったためと言われる。江戸時代はカギ形に折れ曲がる坂であったが、明治時代に直進するように作り変えられ、石榴新坂とも呼ばれていた。江戸時代には北側が薩摩藩島津家下屋敷、南側が久留米藩有馬家下屋敷と両側を広大な屋敷に挟まれていた。坂下南側には高山稲荷に通じる二百数段の石段が伸びていたが、同社は境内縮小により現在柘榴坂とは接していない。
柘榴坂下・wikipedia-photo (wikipedia・柘榴坂より)]
[高輪3丁目、4丁目の間
坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか。江戸時代はカギ形に曲り、明治に直通して新坂と呼んだ。 (「港区公式ホームページ/柘榴坂(ざくろざか)」より)]
「於杓子横丁
高輪南町から二本榎へ出る道をいった。高輪側からこの道へ入って西へ2丁ばかりのところに釈神社(道祖神の石神であろうか)があるので「於杓子横丁」、「釈地横丁」と名付けられる(砂子・備考)また石神社(しゃくじんのやしろ)があるので「石神横丁」と字し、土地の人が誤って「おしゃもじ横丁」と唱える(江戸名所)。 (「【芝 横町(横丁)】於杓子横丁 | 江戸町巡り」より)]
毛利高輪邸
[東京の芝高輪南町27番地にあった毛利氏の邸宅。別名、常磐邸。幕末の長州征討で、江戸幕府の制裁として没収された毛利氏江戸藩邸(毛利甲斐守邸跡)に代わり、明治5年(1872年)旧久留米藩邸地に新築されたもの。明治6年(1873年)5月には明治天皇が行幸、翌7年(1874年)5月には皇后(昭憲皇太后)・英照皇太后が行啓している。現在、跡地で品川プリンスホテルが昭和53年(1978年)に開業しているが、これに先立つ昭和50年(1975年)には、門が狭山不動尊に移築されている(不動寺総門)。 (wikipedia・毛利邸#高輪邸より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切左上・薩州殿下屋敷、有馬中務大輔下屋敷が描かれています、その間カギ形に折れ曲がる道が柘榴坂です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央右下、松平大隅守下屋敷と有馬幸五郎下屋敷がが描かれています、その間カギ形に折れ曲がる道が柘榴坂で、坂下に面して高山稲荷が描かれています。またそこに里俗ヲシャモジ横丁と記述されています。また、坂上方向に釈地社が描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切左下・高輪南町の左上の17番,18番、19番が薩摩藩嶋津家下屋敷跡、27,28,29番が久留米藩有馬家下屋敷跡とおもわれます。)
柘榴坂上・カメラ東南東方向が柘榴坂で、坂左に標識があります。坂左が薩摩藩嶋津家下屋敷跡(現在・グランドプリンスホテル新高輪、複合商業施設「SHINAGAWA GOOS(シナガワグース)」)、右が久留米藩有馬家下屋敷跡(元毛利邸・現品川プリンスホテル)になります。
柘榴坂下・カメラ西北西方向が柘榴坂で、坂左に標識があります。坂下の位置は江戸時代には南側にあったようです。