マーカーは柳沢伯爵邸跡付近です。
柳沢吉保関連リンク – 「神田御殿跡、柳沢吉保上屋敷跡」、「郡山藩柳沢家下屋敷跡(六義園)」、「大和郡山藩柳沢家上屋敷跡(東京府庁跡・樋口一葉生誕の地)」
柳沢伯爵邸
[港区三田三丁目 11 番地(旧住所:芝田町八丁目)、国道第一京浜と JR 線路に挟まれる土地に、かつて柳沢吉保(よしやす・幕府御用人)の子孫である柳沢伯爵家がその居を構えていました。明治6年(1873)に柳沢家7代目当主の保申(やすのぶ)が移り住み、8代目の保恵(やすとし)が洋館を建て、9代目の保承(やすつぐ)が戦後間もなくにこの地を離れるまでのおよそ 70年間のことです。この邸宅に関する資料として、明治期から昭和戦前期まで柳沢邸の建築に携わっていた清水組の図面類が現・清水建設に保存されています。これらの資料から、芝田町にあった柳沢邸の変遷を読み取ることができます。
柳沢家が移り住んだ明治6年、敷地東側は、東京湾の海岸線で、眼前に海が広がり、海上を新橋・横浜間をつなぐ汽車が走っていました。この光景は、当時の錦絵の題材としても取り扱われており、柳沢邸からも眺めることができたであろうと考えられます。明治の終わりになると、港の整備を進めるため、芝沿岸の埋立てが開始されます。その埋立ても大正7年(1918)頃には完了、埋立地には工場などが建ち並び、柳沢邸から海を眺めることはできなくなりました。
昭和に入ると、柳沢邸の周辺環境は益々変化します。大正 12 年に起きた関東大震災をきっかけに、東京の道路整備が加速し、その一環として、柳沢邸の目の前、現・国道第一京浜の拡幅が昭和の初めに進められました。柳沢邸は、敷地の 1/3 近くを道路用地として提供し、併せて建物の一部を解体します。もっとも、車寄せ部分のみは大和郡山の別邸に移築され、現在では同所にある柳沢文庫の入口車寄せとして、芝田町邸のよすがを伝えています。
さらに時代は進み、太平洋戦争の末期になると、柳沢邸周辺は強制(建物)疎開の対象地となります。『新修港区史』付図などによれば、柳沢邸付近は、疎開対象地には該当していないようにも見えますが、実際は洋館等を解体し、戦後は解体部材が敷地内に存置されていたという話も残されています。残念ながら、解体部材の行方は定かではありません。そして戦後間もなく、柳沢家は田町の敷地を手放します。
(「「資料館だより」第72号(平成25年9月30日発行)PDFダウンロード1.9MB – 田町八丁目にあった柳沢伯爵邸」より)]
芝田町八丁目は現在の港区三田三丁目11番地で、11番地は旧芝田町七丁目、八丁目、九丁目にあたり、 芝田町八丁目は現在のアイシン精機の辺りではないかと思われます。
カメラ位置は三田avantiとアイシン精機との間で、カメラ南東方向付近に柳沢伯爵邸があったようです。