マーカーは芝雑魚場跡標柱です。
芝雑魚場(芝浜)
[JR山手線「田町」または都営地下鉄「三田」駅で降り国道1号線に沿って日比谷通りとの交差点「芝5丁目」、右側今話題の三菱自動車本社ビルと第2田町ビルの間の路地を入る。この三菱自動車本社ビルはもと薩摩藩屋敷跡が有ったところで、路地入り口に丸い石碑で田町薩摩邸跡の碑が建っています。ここに薩摩藩”西郷隆盛”と江戸幕府”勝海舟”が江戸城無血開城の話し合いが行われた、歴史的な場所であると記されています。路地を入るとすぐ左手に「鹿島神社」(港区芝4-15)が現れます。この境内に寄席文字の橘右近書「芝浜囃子の碑」が有ります。ここから路はJRや新幹線の走る高架橋の手前公園に突き当たりますので左に曲がります。この公園から数十m間が「芝浜」で、江戸時代「沙濱」と記され、この本芝公園が昔、浜になっていて、舟で魚を運んでここで魚河岸としての商いが行われていました。
本芝公園に建つ説明板
この付近は、芝の中でも、古川河口の三角州に、 江戸時代よりも昔から開けたところで本来の芝という意味で、本芝と呼ばれた。公園の位置は、東海道(現在の第一京浜国道)のうらあたりの海に面した砂浜で、江戸時代には、魚が水揚げされたので雑魚場(ざこば)と呼ばれた。明治5年に開通した鉄道は、軍部の意向で海上の堤防を走ったが、雑魚場はガード下から東京湾に通じていた。最後まで残っていた江戸時代の海岸線であったが、芝浦が明治の末から次第に埋め立てられ、漁業も行われなくなって海水が滞留したので、昭和43年に埋め立てて、本芝公園として開園した。 港区土木維持課の説明文より。 (「第4話「芝浜」 」より)]
[東京湾の港区側、芝口(現在の新橋)から南、本芝ほんしば(現在の田町)周辺までの広域称。天正18(1590)年徳川家康が関八州に入封するよりも前からある漁場で、貝類、ウナギ、芝海老、カレイ、黒鯛などが獲れ、将軍家に鮮魚などを献上する「御菜肴八ヶ浦おさいさかなはちがうら」の中でも、早くから、この役を担っていた。なお、東海道の起点と言えば日本橋が有名であるが、慶長8(1603)年に日本橋が起点となるまでの3年間は、本芝が起点となっていた。 (「芝浦 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右下・松平肥後守陣屋の上に沙濱が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図(天保十三年・1842年)」(コマ番号2/5・絵図右下、コマ番号4/5・絵図右上に「網干場」と描かれています。)
「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「三田八幡宮」(6-71)
[左ページに御田八幡神社、右ページに芝雑魚場(芝浜)が描かれています。]
「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「芝海漁舟」、「雑魚場解説・左ページ左から三項目」
[江戸湾は豊富な魚種に恵まれており、漁業が盛んであった。本図は芝浦付近でのさまざまな漁業の様子を描いている。画面中央では投網漁、その左側では 2 艘の漁船による巻き網漁が行われている。漁船は後部両側から櫓で操船ができる仕組みになっている。画面右では、尻からげにした 3 人の男たちが、膝までつかる程度の浅瀬で漁を行っている。なかなかの大物をしとめ、エラを通して魚を束ねている。2 艘の遊漁船で釣りを楽しんでいる男たちは服装か. ら判断して、町人であろう。生業としての漁業だけ. でなく、レジャーとしての釣りも盛んであったことを窺わせる。遠景には四つ手網を使った火振漁が描かれる。沈めた四つ手網の上で漁火を焚き、魚が集. まってきたところで引き上げた。(富澤) (「さまざまな生業」より)]
狂歌江都名所図会 – 雑魚場 金杉毘沙門堂(拡大図)
絵本江戸土産 – 芝浦(拡大図)
絵本江戸土産 – 芝浦其二(拡大図)
絵本江戸土産 – 芝浦御濵沖(拡大図)
歌川広重・江戸近郊八景之内芝浦晴嵐(ボストン美術館)
「資料館だより 第57号(平成18年3月10日発行)PDFダウンロード2.0MB – 雑魚場 -江戸庶民の魚市場-」
「資料館だより 第80号 – 港区立図書館 – 明治時代の芝浦 近代初頭の東京の行楽地」
芝雑魚場跡標柱前のカメラです。