マーカーは西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑です。
関連リンク – 薩摩藩上屋敷跡、芝さつまの道、薩摩藩装束屋敷跡(元鹿鳴館)、薩摩藩島津家下屋敷跡(常陸宮邸)、常盤松の碑、薩摩藩島津家下屋敷跡(八芳園)、薩摩藩島津家抱屋敷跡(東大井遊歩道)、柘榴坂(薩摩藩島津家・久留米藩有馬家下屋敷跡)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP526・コマ番号307/553から鹿児島藩屋敷の変遷について記載されています。P528・コマ番号308/553「抱屋敷 芝田町海手」がこの地になります。
西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑
[JR田町駅を三田口に降り、第一京浜沿いに西郷南洲の孫西郷吉之助の筆による丸い碑が建っています。江戸城総攻撃を目前にした慶応4年(1868)3月13日、14日の両日、薩摩屋敷において勝海舟と西郷隆盛の会見が行われ、歴史的な無血開城が決められました。13日の予備的会談は高輪の薩摩屋敷、翌日の最終会談はこの碑の建つ薩摩藩蔵屋敷で行われたと伝えられています。 (「勝・西郷会見の地跡 | 港区観光協会 | VISIT MINATO CITY … 」より)]
[慶応四年三月十四日
此地薩摩邸に於いて西郷勝両雄會見し江戸開城の圓満解決を図り百萬の民を戦火より救ひたるは其の功誠に大なり
平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す
昭和二十九年四月三日
本芝町會
本芝町會十五周年記念建之 (Google Map 画像より)]
[田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)付近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩屋敷跡の由緒ある場所です・
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)さらに埋め立てられて海まで遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。
また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。 (Google Map 画像より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右下に松平薩摩守下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図(天保十三年・1842年)」(コマ番号4/5・絵図四つ切右上に「松平大隅守抱屋敷」と描かれています。)
「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地 – Google Map 画像リンク」
2024年8月画像 – カメラ南方向が薩摩藩嶋津家抱屋敷跡に建つ田町タワーで西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑も移設されているようです。(薩摩藩嶋津家抱屋敷跡範囲:港区芝5丁目33)
カメラ西南西方向に移設された西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑があります。
移設前の画像 – 西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑(Google Map 画像)