長松寺

マーカーは長松寺です。

長松寺
[地下鉄白金高輪駅の東,徒歩5分。はじめは八丁堀にあり,大円寺という名称だったが,その後現在名に改称して寛永12年(1635年)にこの地へ移った。江戸中期の儒学者萩生徂徠の墓があることで知られる。  (「東京ガイド」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」(絵図中央上の細川越中守中屋敷の左、一柳兵部輔下屋敷の下方向に長松寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図」(コマ番号4/5・絵図中央寺町下、「一柳兵部少輔」右に「長松寺」が描かれています。)

荻生徂徠の墓 – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向が長松寺参道で、参道右に荻生徂徠墓の史跡碑(荻生徂徠の墓は、国の史跡に指定されている。)が設置してあります。

荻生徂徠
[江戸に生まれる。幼くして学問にすぐれ林春斎・林鳳岡に学んだが、延宝7年(1679年)、将軍になる直前の徳川綱吉(将軍在任は1680-1709年)の怒りにふれ、父が江戸から放逐された。父の蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総の本納村(現・茂原市)に移った。ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。元禄5年(1692年)、27歳の時、父の赦免でともに江戸に戻り、ここでも学問に専念した。芝増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている。元禄9年(1696年)、徂徠31歳のとき、5代将軍・徳川綱吉側近で幕府側用人川越藩主の柳沢吉保に抜擢され、川越藩で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍綱吉の知己も得ている。宝永6年(1709年)、徂徠44歳のとき、綱吉の死去、吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾蘐園塾を開いた。やがて徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「蘐園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ(隣接して宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある〉。 享保7年(1722年)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。追放刑の不可をのべ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆でみずから恃むところ多く、中華趣味をもっており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(1728年)に死去、享年63。墓所は東京都港区三田四丁目の長松寺。  (wikipedia・荻生徂徠より)]

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