マーカーは鳥取藩池田家下屋敷跡です。
関連リンク – 鳥取藩池田家上屋敷跡(帝国劇場・出光美術館)、鳥取藩池田家中屋敷跡、鳥取藩池田家深川下屋敷跡、東郷神社(鳥取藩池田家下屋敷跡)、因州池田屋敷表門
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP412・コマ番号250/553から鳥取藩屋敷の変遷について記載されています。P415・コマ番号251/553「下屋敷 芝金杉」がこの地になります。
因州候江戸芝金杉別荘園池図
[鳥取藩池田家の芝金杉下屋敷のうち、庭園部分を俯瞰的に描いた絵図。包紙の記述より、天保7(1836)年に「冬青書屋」なる者が、江戸に赴任する途中の鳥取藩医の原大順より京で写したものであることがわかる。鳥取藩は、寛永年間(1624~44年)にこの屋敷を下屋敷として拝領し、いったん海防のために嘉永6(1861)年に幕府に返納したが、文久元(1861)年には再度拝領している。約1万6000坪におよぶ芝金杉下屋敷は、三方を海に囲まれていたために眺望がよく、歴代藩主の隠居所や部屋住の時期の住居にあてられた。この屋敷の中央にあったのが、本絵図が描く池泉回遊式庭園で、本図の下中央が表門、そして左側の空白の部分に御殿があった。本絵図は、築山や海水を取り入れた池のほか、植物についても細かく描写されており、大名藩邸の特質の一つである大名庭園のありようを示す格好の素材である。また、この芝金杉下屋敷については、全体図と別の角度より見た庭園図(本図左側の御殿より描く)が鳥取県立博物館に所蔵されている。 (「国立歴史民俗博物館-歴博画像データベース-館蔵資料画像データベースの検索結果(詳細)」より)]
[十七世紀後期に拝領され、海岸沿いの埋⽴地にあった鳥取藩池田家下屋敷では、図 5 を⾒ると、
図 5(鳥取藩池田家下屋敷絵図・庭園部分(『因州候江戸芝金杉別荘園池図』天保 7 年(1836) 国立歴史民俗博物館蔵 より作成)
園内には富⼠⼭を模した象徴的な築⼭が四つ配置されているが、これは 3.(2)で述べた円錐形築⼭である。屋敷は背後に江⼾湾が広がる場所に位置しており、「雲濤楼」という楼閣建築の鑑賞⽅向に沿って池泉が奥⾏きを持つように配置され、その先に江⼾湾が広がる構成になっている。海岸沿いという⽴地を⽣かして遠⽅眺望を意識して作られていた。
※3.(2)十七世紀後期の庭園における円錐形築山
十七世紀後期に拝領された江戸郊外武家屋敷の庭園内の多くで円錐形築山を確認でき、これらが園内における主要な鑑賞対象物であると同時、園外眺望のための施設であったことが分かった。また、これらは立地環境を問わず実に様々な庭園に作られており、十七世紀後期の江戸武家屋敷の庭園における一つの流行であった。また、十七世紀前期に拝領されていた江戸郊外武家屋敷の庭園においても十七世紀後期以後になって新たに築かれていたことを指摘した。 (「江戸武家屋敷の庭園に関する研究 – 法政大学学術機関リポジトリ」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [1]拾六上」(コマ番号49/204「延宝年中(1673年-1681年)之形」絵図下に松平相模(池田光仲)上屋敷が描かれています。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(絵図右下に松平因幡守(池田慶行)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右下に松平因幡守(池田慶栄)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は新浜公園で、カメラ南西方港区芝浦1丁目3までが鳥取藩池田家芝金杉下屋敷跡になると思います。(鳥取藩池田家芝金杉下屋敷跡範囲:港区芝浦1丁目1~3,5)