麻田藩青木家上屋敷跡

マーカーは麻田藩青木家上屋敷跡です。

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP806・コマ番号447/553から麻田藩屋敷の変遷について記載されています。P824・コマ番号456/553「上屋敷 三田古川端」がこの地になります。

麻田藩青木家
[麻田藩(あさだはん)は、江戸時代摂津国豊島郡川辺郡などを領有した藩。藩庁は豊島郡麻田村(現在の大阪府豊中市蛍池)の麻田陣屋。藩主は外様大名青木家。初代藩主は青木一重表高元和元年(1615年)の立藩時には1万2千石で、元和3年(1617年)の分知後は1万石である。
初代藩主青木一重の父重直美濃国出身で、当初は美濃の守護大名土岐頼芸に仕えていた。
その子一重は当初今川家に仕え、今川家没落後は徳川家康に仕えた。三方ヶ原の戦いでは実弟の重経が討死し、その翌年の天正元年(1573年)に徳川氏の元を出奔し、織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父重直を頼り、長秀の家臣となる。長秀の死後は重直とともに羽柴秀吉の家臣となった。
慶長19年(1614年)大坂冬の陣で一重は豊臣方の和議の使者として駿府に下向したが、その帰途京都で拘禁され徳川方の捕虜となった後、旧主家康の軍門に下り、摂津国豊島郡・菟原郡および備中国伊予国に所領を与えられて麻田藩を立藩した。
青木家の治世
元和元年(1615年)、摂津豊島郡川辺郡の一部1万2千石で青木一重を藩主として成立した。元和3年(1617年)までに一重は旗本で弟の可直に2千石を分知したため1万石となった。
元和5年(1619年)、一重は可直の子の重兼を養嗣子にして跡を継がせた。同じく一重の養子で廃嫡された青木正重寛永年間、重兼を補佐している。寛永3年(1626年)には菟原郡および伊予国の所領は摂津国豊島郡・川辺郡に移された。
重兼には娘しかおらず、寛文12年(1672年)に徳川家最古参の譜代筆頭である酒井家越前朝倉家の血をひく重正を養嗣子(婿養子)とした。重正は大番頭や側衆を務め、将軍徳川綱吉から厚い信任を受けた。元禄6年(1693年)8月15日に69歳で亡くなったが、この時も綱吉から侍医の森雲仙らを派遣されている。
以後、麻田藩は江戸時代を通じて青木家が治めたが、寛文年間に黄檗宗仏日寺伽藍建築を行ったため、藩財政は窮乏した。酒や油などの必需品の領内生産の奨励、藩札の発行等の策を講じたが効果がなく、のちに藩札の管理は領民に委ねられた。
明治4年(1871年)に廃藩置県を迎え、麻田藩は麻田県となった。  (wikipedia・麻田藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図四つ切右上・青木美濃守(青木一興)上屋敷が描かれています]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」[コマ番号2/2・絵図中央上に青木駿河守(青木重龍)と描かれています。]

カメラ位置は古川三之橋東詰めで、カメラ南方向が麻田藩青木家上屋敷跡です。(麻田藩青木家上屋敷跡範囲:港区三田5丁目2)