マーカーは「浅野内匠頭終焉之地」の石碑です。
関連リンク- 一関藩田村家中屋敷跡、一関藩田村家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP367・コマ番号227/553から一関藩屋敷の変遷について記載されています。P368・コマ番号228/553「上屋敷 愛宕下」がこの地になります。
一関藩田村家
[一関藩(いちのせきはん)は、江戸時代の藩の一つ。陸奥国磐井郡一関(現在の岩手県一関市)に藩主居館を置いた。この地に陣屋を置いた大名家は、いずれも仙台藩・伊達氏の内分分知の分家に当たる一関伊達家と田村家の2家である。前者は11年で改易・廃藩となったが、後者は180年余り続いて明治維新を迎えた。万治3年(1660年)に、仙台藩主伊達綱宗の叔父伊達宗勝(伊達政宗十男)が3万石の分知を受けてこの地に陣屋を置いたことに始まる。宗勝は、綱宗の隠居により2歳で藩主となった綱村の後見役として仙台藩政を担っていたが、寛文11年(1671年)の伊達騒動により失脚した。これにより一関藩は改易され、その領地は仙台藩に返還された。その後、天和2年(1682年)に陸奥岩沼より田村建顕が移り、再び大名領を形成した。田村家は、仙台藩2代藩主伊達忠宗がその子田村宗良に母・愛姫の実家である田村氏の名跡を再興させたのに始まる。宗良は、伊達宗勝と共に伊達綱村の後見役となり、陸奥岩沼にて3万石の大名に列した。建顕は宗良の子であり、外様大名ながら奥詰として将軍徳川綱吉の側近として仕えた。一関藩は、松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩主浅野長矩を預かり、江戸上屋敷(藩邸)内で切腹させたことでも知られる(詳しくは元禄赤穂事件)。藩邸跡の日比谷通りの新橋四丁目交差点脇の歩道に、切腹した場所を示す「浅野内匠頭終焉之地」の石碑がある(環状 2号線工事のため「石碑」は一時撤去しており、東京都第一建設事務所に保管している)。田村家菩提寺である祥雲寺_(一関市)には浅野長矩の供養塔がある。 (wikipedia-一関藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図」[絵図愛宕ノ下大名小路の左・田村右京太夫が一関藩田村家上屋敷です。]
「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「八[144] – コマ番号55/144」(絵図中上・広小路上に田村右京太夫と描かれています。)
「浅野内匠頭終焉之地 – Google Map 画像リンク」
カメラ位置は新橋四丁目東交差点で、カメラ西北西方向、新道を含む両サイドが一関藩田村家上屋敷跡になります。(一関藩田村家上屋敷跡範囲:港区新橋4丁目1,3,28~31)
カメラ北方向が環状第2号線建設に伴い移設された「浅野内匠頭終焉之地」の石碑です。