下妻藩井上家上屋敷跡

マーカーは下妻藩井上家上屋敷跡です。

関連リンク – 下妻藩井上家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP892・コマ番号490/553から下妻藩屋敷の変遷について記載されています。P893・コマ番号490/553「上屋敷 愛宕下」がこの地になります。

下妻藩井上家
[下妻藩(しもつまはん)は、常陸国(現在の茨城県下妻市下妻甲)に存在した藩。藩庁は下妻陣屋に置かれた。
正徳2年12月25日、井上正長が1万石で入ったことから、再び下妻藩が立藩する。正長は美濃郡上藩主・井上正任の三男であったが、父から郡上郡内で3000石を分与されて交代寄合旗本となり、徳川家宣甲府藩主の時代からその家老を務め、家宣が将軍後継者となると西の丸御側衆となり、3000石を加増された。そしてその後も順調に加増されて8000石になり、家宣が死去するとその遺命により、正長は2000石を加増されて1万石の大名として下妻藩主となった。井上家は幕末期に浜松藩を領した井上家の分家にあたり、他には上総高岡藩があり、みな明治維新を迎えている。
藩主家である井上家は歴代藩主の多くが短命だったため、14人の藩主のうち、10人が他家から迎えられたという異例の家であり、その点においても藩政は不安定であった。第14代藩主・井上正巳の時に明治維新を迎え、正巳は明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還藩知事となる。  (wikipedia・下妻藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央右上に井上遠江守(井上正誠)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 八之二(天保九年・1838年)」[コマ番号2/2・絵図上中央に井上遠江守(井上正健)と描かれています。]

カメラ位置は新橋五丁目西交差点で、カメラ東北東方向環二通りまでが下妻藩井上家上屋敷跡になります。(下妻藩井上家上屋敷跡範囲:港区新橋4丁目26,27,港区新橋5丁目7,8)