佐伯藩毛利家上屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP829・コマ番号458/553から佐伯藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 愛宕下佐久間小路 芝区南佐久間町二丁目」がこの地になります。

佐伯藩毛利家
[佐伯藩(さいきはん)は、江戸時代豊後海部郡に存在した藩の一つ。藩祖は毛利高政。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯市)に置かれた。
ちなみに高政は毛利姓を名乗っているが、長州藩大江姓毛利氏との血縁関係はない。高政は本能寺の変が起こったときは秀吉に従って備中高松城にあったが、秀吉の中国大返しのとき、秀吉の命で兄・重政とともに毛利家の人質となった。高政の元来の姓は鯰江氏流の森であるが、毛利輝元から大いに気に入られたため、兄弟ともに毛利姓を与えられ、以後は毛利と称したものである。
高政は慶長の役で出陣し、慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなると高政も日本に帰国した。高政は慶長の役で軍監を勤めた関係から石田三成やその与党である垣見一直と対立しており、また朝鮮では水軍の将を務めた武断派であったことからも三成とは不仲であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初こそ西軍に属して丹後田辺城細川幽斎を攻める軍に参加した(田辺城の戦い)。これは石田三成と不仲ではあったが、西軍の名目上の総大将が自らに毛利姓を与えてくれた毛利輝元だったためといわれる。田辺城は2か月の長期戦の末に開城するが、その3日前に関ヶ原の戦いは終わっていた。高政は盟友の藤堂高虎の説得、九州で留守部隊を率いていた東軍の黒田如水より東軍への勧誘工作もあったため、東軍に寝返った。高虎の取り成しもあり、慶長6年(1601年)4月5日、徳川家康の命令で高政は同じ石高での日田から佐伯栂牟礼城2万石に移封され、ここに佐伯藩が成立した。
高政の入封当初、佐伯の中心となっていた栂牟礼城は奥まった土地にあったため、これに不便を感じ、番匠川河口の八幡山に新たに佐伯城を築き、麓に城下町を開いた(慶長7年(1602年)着工、慶長11年(1606年)竣工)。佐伯藩領は起伏に富み耕地が少なく農業による収入は少なかった。海岸はリアス式海岸であるため浦が多く、漁業と海上輸送基地の港として活用され、「佐伯の殿様、浦でもつ」という言葉が生まれたほどに藩財政の柱となっていた。また、林業も藩財政を支える収入源の一つであった。
慶長19年(1614年)から大坂の陣が始まると、高政は冬・夏の陣共に徳川方として参加した。また高政は築城や城下町建設、検地、新田開発など諸政策を断行して藩政の基礎を固めた。
第6代となった高慶(高定)は乱れた藩政を再建するため、規律を定めて文武を奨励し、産業振興に尽力した。また倹約に務めて不正を許さず、病気と称して酒色と遊芸に溺れ他家からの養子と侮る家老を領外追放あるいは免職退隠させた。城内には学習所を開設して後の藩校創設の基礎を築いた。高慶は災害対策にも力を注ぎ、宝永4年(1707年)10月4日の宝永地震(佐伯の推定震度は6)の被害を受けて津波対策のために堤防を築造。また地震の2年前に大火が発生した翌年に消防組織を創設し、3年後には指揮命令系統を整備するため火消奉行を編成した。このように大規模な藩政改革を行なった高慶の時代は40年間余に渡って続き、佐伯藩の中興の祖、英主と讃えられた。
第7代の高丘も祖父の藩政改革を引き継ぎ、不正を理由に家老や奉行を罷免した。しかし高丘の時代には藩財政が逼迫、借金に借金を重ね利子払いが精一杯という破綻寸前の状態に陥った。そのため、専売の強化や塩の自由売買を禁止するという統制経済、規制強化を行なって財政再建を図った。
第8代藩主高標は、中興の祖として知られている。3度の倹約令を徹底し、200石以上の俸禄を半減し、諸事経費の半減と支出の削減に努め、藩札を発行、藩財政の立て直しを図った。また、文教政策にも力を注ぎ、安永6年(1777年)、藩校「四教堂」(しこうどう)を開き、天明4年(1784年)には蔵書が8万冊にも達する「佐伯文庫」を設け藩士に広く活用させた。後に10代高翰は佐伯文庫の貴重本2万冊を江戸幕府紅葉山文庫昌平黌に寄贈している。しかし高標の時代には天災や火災が集中して発生し、これにより領民の生活は窮乏して藩財政も危機的状況に陥った。文化9年(1812年)1月には4000人からなる百姓一揆も発生し、それを鎮圧する藩の軍と交戦して死傷者を出した。
明治2年(1869年)3月4日、版籍奉還を行なった高謙は佐伯知藩事に任命され華族に列した。  (wikipedia・佐伯藩より)]

研究 佐伯藩主毛利家の本家・分家関係 甲斐素純

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図上中央に毛利安房守(毛利高泰)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 八之二(天保九年・1838年)」[コマ番号2/2・絵図四つ切左上に毛利伊勢守(毛利高泰)と描かれています。]

カメラ南南西方向道路両サイドが佐伯藩毛利家上屋敷跡になります。