大垣藩戸田家中屋敷跡

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戸田氏正
[戸田 氏正(とだ うじまさ)は、文化10年(1813年)閏11月18日、美濃国大垣藩8代藩主・戸田氏庸の長男として誕生。母は大垣新田藩戸田氏養の娘・泰寿院。通称は新二郎。文政10年(1828年)6月27日、将軍徳川家斉に拝謁する。文政11年12月16日、従五位下伊賀守に叙任する。天保12年(1841年)5月7日、家督を継いだ。嘉永3年(1850年)12月16日、従四位下に昇進する。
開明的な藩主で洋学に興味を示し、佐久間象山勝海舟の門下生として藩士を多数送り込み、洋式学を学ばせた。また、城代の小原鉄心と協力して藩政改革に努め、大砲鋳造などの洋式軍制導入等、軍制改革を行なった。また、徳川斉昭と親しかった関係から、尊皇攘夷論に次第に傾倒していったという。
安政3年(1856年)10月25日、長男・氏彬に家督を譲って隠居した。戊辰戦争で朝敵になった際には小原鉄心を助けて尊王への藩論統一に務めた。  (wikipedia・戸田氏正より)]

戸田氏彬
[戸田 氏彬(とだ うじあきら)は、天保2年(1831年)5月11日生まれ。弘化3年(1846年)11月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。嘉永元年(1848年)12月16日、従五位下出雲守に叙任する。安政3年(1856年)10月25日、父の氏正が隠居したため、家督を継ぐこととなった。文久元年(1861年)12月16日、従四位下に昇進した。
幕府に忠実な人物で、禁門の変では長州藩家老福原元僴が率いる軍勢を伏見街道で破るという功績を挙げている。さらに水戸藩天狗党武田耕雲斎中山道上洛しようとしたときは、これを妨害した。
第2次長州征伐にも幕府方として与し、第14代将軍・徳川家茂の警護役を務めたが、その途中で病に倒れ、慶応元年(1865年)8月8日に35歳で死去した。死後、家督は弟の氏共が継いだ。  (wikipedia・戸田氏彬より)]

戸田氏共
[戸田 氏共(とだ うじたか)は、嘉永7年(1854年)7月23日、第9代藩主戸田氏正の五男として生まれる。慶応元年(1865年)10月3日、長兄の第10代藩主氏彬の病死により、その末期養子として家督を継いだ。翌慶応2年(1866年)7月19日、従五位下采女正に叙任する。慶応4年(1868年)1月10日、鳥羽・伏見の戦いの敗戦により、新政府から朝敵として入洛禁止を命じられた。そうした状況のなか、家老の小原鉄心が藩論を勤王・恭順にまとめ上げた。同年1月16日、氏共は直ちに上洛して新政府に謝罪し、官軍の東山道鎮撫使の先鋒役を務めることになった。4月15日、正式に朝敵から除外され、戦後は一転して賞典禄が授与された。
明治2年(1869年)6月18日、大垣知藩事に就任する。明治3年(1870年)閏10月19日、大学南校への入学を願う。明治4年(1871年)2月、アメリカ留学のために知藩事職を辞任する。  (wikipedia・戸田氏共より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右下に戸田采女正(戸田氏正)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/2・絵図右下、新堀川左に戸田采女正(戸田氏正)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は将監橋南交差点で、カメラ南南東方向一画が大垣藩戸田家中屋敷跡になります。