小松藩一柳家上屋敷跡

マーカーは小松藩一柳家上屋敷跡です。

関連リンク – 小松藩一柳家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP784・コマ番号436/553から小松藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 愛宕下佐久間小路」がこの地になります。

小松藩一柳家
[小松藩は、伊予国東部に所在した藩。藩庁は周布郡新屋敷村(現・愛媛県西条市小松町)の小松陣屋に置かれた。
石高1万石の小藩で、江戸時代初期の1636年から廃藩置県まで、外様大名一柳家が9代約230年にわたって治めた。
寛永13年(1636年)、伊予松山藩24万石の藩主蒲生忠知は継嗣なく没したために改易され、その所領は分割された。このうち旧松山藩領東部に当たる西条6万8600石は、伊勢国神戸藩一柳直盛に与えられたが、直盛は采地に赴く途中の大坂で没した。
直盛の遺領は男子3人によって分割された。伊予西条藩主を継いだのは長男直重で、西条周辺の3万石を領した。次男直家川之江一帯の1万8600石に播磨国小野の飛び地領1万石を加え、都合2万8600石を領した(伊予川之江藩、のち陣屋を播磨に移し小野藩)。そして三男の直頼には1万石を分与された。直頼は西条の西に位置する周布郡新屋敷村に陣屋(小松陣屋)を構え、小松藩が立藩する。小松の地名は付近に背の低い松が群生していたことに由来するという。
こうして伊予国東部には、西から小松藩・西条藩・川之江藩(小野藩)と一柳家の兄弟の所領が連なることとなったが、寛永19年(1642年)に小野藩の直家が没すると、伊予国内の所領1万8600石が没収されて幕府領となった(直家の系統は播磨国小野藩1万石の藩主として廃藩置県まで続く)。寛文5年(1665年)には西条藩の一柳直興(直重の子)が改易され、伊予国には小松藩のみが残ることとなった。
2代藩主直治の治世、寛文年間から元禄年間(1661年 – 1704年)にかけて300町歩の新田開発を行った。3代藩主頼徳(直卿)は書の達人で、当時の大名の中でも随一と絶賛されている。
享保17年(1732年)の享保の大飢饉では、小松藩でも救済を必要とする「飢人」が住民の4割を超える事態となったが、隣藩の松山藩が多くの餓死者を出したのに対して餓死者は皆無であった。小藩であるがゆえに領内の不作の兆候の把握が早く、対策が立てられたこと、また日頃からの備蓄米が功を奏したことによるものである。その後も天災や飢饉に際し、領民の状況の把握と救済米の支給など、きめ細やかな対応を行っている。18世紀後半には、大規模な逃散や、首謀者の領外追放で幕を閉じた騒動などはあるものの、流血を伴う事件は記録されていない。
第7代藩主頼親のもと、享和2年(1802年)には奉行・竹鼻正脩によって藩の学問所「培達校」が設置された。翌享和3年(1803年)には朱子学者・近藤篤山を招聘し、「養正館」と改名している。
第8代藩主頼紹の時代に幕末の動乱期を迎える。慶応4年/明治元年(1868年)の戊辰戦争において、小松藩は新政府軍に加わり、総勢51人(足軽・小者も含む)が出兵した。小松藩兵は京都で明石藩・小野藩・三日月藩足守藩などの諸藩兵と合流してともに越後国に出陣し、新潟・長岡・村上などを転戦した(北越戦争)。この中で、戦死者1名・重傷者1名・軽傷者1名を出している。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還にともない頼紹は知藩事に任命されたが、間もなく病没している。頼明が知藩事を継いだが、明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって小松藩は廃止され、小松県となった。  (wikipedia・小松藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図上中央に一柳兵部少輔(一柳頼紹)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 八之二(天保九年・1838年)」[コマ番号2/2・絵図四つ切左上に一柳庫次郎と描かれています。]

カメラ位置は西新宿二丁目交差点で、カメラ南南西方向道路を含む両サイドが小松藩一柳家上屋敷跡になります。