高取藩植村家・小諸藩牧野家上屋敷跡(芝給水所・駐日オランダ王国大使館)

マーカーは芝給水所です。

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高取藩上屋敷
国立国会図書館デジタルコレクション – 萬世御江戸繪圖」[絵図中央左方向、増上寺右上、現在の芝給水所にうえ村くまの助(植村家保・熊之助(幼名)) と記述されています。植村家保は大和国高取藩第13代藩主です。
高取藩は9代藩主植村家長の時、若年寄を勤め、1825年(文政8年)に老中格となって老中待遇を受け、1828年(文政11年)在職のまま死去したため、 西丸下からの屋敷替えになると思います。
国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP560・コマ番号324/553の高取藩上屋敷に下記の通り記載されています。
『一、上屋敷 西丸下
拝領文政八(1825)年五月九日 上地文政十一(1828)年十二月
同上駿河守家長(植村家長)老中就任屋敷ナリ。
同十一年朝日山藩水野家ト入替リニ成。
一、上屋敷 芝切通
拝領文政十一(1828)年十二月 上地安政六(1859)年八月十六日
安政六年上地ノ後再ビ朝日山藩水野家屋敷ト成。
一、上屋敷 常盤橋内
拝領安政六(1859)年八月十六日』
第13代藩主植村家保になり江戸幕府諸役を歴任し常盤橋内に屋敷地を拝領しています。]

小諸藩上屋敷
「「江戸藩邸沿革」のP781・コマ番号434/553の小諸藩上屋敷の最後の項とその前の項に次の記述があります。
『一、上屋敷 西窪切通
 拝領文久二(1862)年六月 上地文久三(1863)年十二月十三日 坪数五千八百拾四坪余
  元朝日山藩(山形藩)水野家屋敷ニシテ、拝領年月日同藩ノ條参照。
  上地後菊間藩(沼津藩)水野家屋敷ニ成。坪数同藩ノ條参照。
一、上屋敷 芝宇田川町 芝区愛宕下町四丁目
 拝領文久三年十二月十三日 坪数千六百三拾坪
  屋敷書抜、文久三年十二月十三日本多能登守(陸奥国泉藩本多忠紀)上ヶ屋敷芝宇田川町貳千六三拾坪余、牧野内膳正。』
小諸藩牧野家は上屋敷地として、この地を文久2(1862)年に拝領し、文久3(1863)年に芝宇田川町(現港区東新橋二丁目12番、新橋六丁目23番)に屋敷替となっています。拝領屋敷地は丸岡藩有馬家上屋敷ではないかと思います。]

小諸藩牧野家
[小諸藩は元禄15年(1702年)に越後国与板藩より牧野康重が1万5000石で入ることで、ようやく藩主家が安定し、廃藩置県まで牧野家が藩主を務めた。
9代・康哉は、井伊直弼大老派に属していた。奏者番安政5年(1858年)に若年寄などの要職を歴任して直弼の懐刀となる。藩政では殖産興業に務め、天保の大飢饉の際には被害が大きく、家中の扶持米を都合して急場を凌いでいる。また西洋から種痘の医術が伝来したのを見て、藩医を江戸に派遣してこれを学ばせた。そして天然痘で苦しむ領民に強制的に種痘を実施した。領民は最初、種痘を信用しなかったため、康哉は我が子に種痘を実施して証拠を見せた。種痘はその後も実施され、小諸藩は全国諸藩に先駆けて種痘が2万人以上も実施されたと言われている。財政改革を中心とする藩政改革にも着手したほか、家臣の俸禄制度にも切り込んだ。綱紀粛正もはかり、過失と非行を繰り返す木俣氏から、家老の家柄をとりあげた。そのほか職務怠慢や、酒ばかり飲んでいる家臣は遠慮なく懲戒処分としたり、隠居させた。また庶民に対して、無謀な迷惑をかけた家臣も懲戒処分とした。これらの詳細内容と家臣の姓名は史料として現存している。また小諸城下の豪商・小山久左衛門・柳田五兵衛・高橋平四郎等を、特権的商人となし、産業経済の醸成を図ったが、果実を得たのは、明治維新後となった。
文久3年(1863年)に最後の藩主となった康済(康哉の子)の時には、慶応2年(1866年)には小諸騒動が起こる。このときは本藩の越後長岡藩牧野家の家臣河井継之助の調停によって解決している。慶応4年(1868年)、康済は信濃追分において赤報隊と戦ってこれに勝利したが、これが原因で新政府に逮捕された。その後、岩倉具視碓氷峠の守備などで功を挙げたため罪を許されたが、直後に小諸騒動が再燃して藩内で混乱が続いた。
明治元年(1868年)11月9日(新暦12月22日)、小諸藩主・牧野康済は、家臣の加藤六郎兵衛成美・牧野求馬成賢等に騙されて、家老ほか4名の斬首刑を執行。これを知った家老1名は、出奔という事件がおきて混乱を極め、統治不能となった。結局、加藤六郎兵衛・牧野求馬の謀略は露見して、加藤は永禁固(無期禁固)、牧野求馬は家は閉門、本人は禁固・出獄後は謹慎・刀取りあげ・親子兄弟以外面会禁止となったほか、加藤・牧野求馬一派は処罰された。
藩主・康済は、明治2年の版籍奉還により小諸藩知事となる。その後も藩内両派の確執が続き、江戸時代家老に相当する大参事を自前で出すことができず、本藩の長岡から大参事を招聘した。  (wikipedia・小諸藩#牧野家の時代より)]

[小諸藩牧野家上屋敷のあった場所は屋敷替えが頻繁に行われ、幕閣の屋敷替えの一時待機所のような様相が見えます。以下に、この場所関連の絵図のリンクを記述してみました。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 八(天保九年・1838年)」[コマ番号81/144-延宝年中(1673年-1681年)之形では加藤内蔵助(加藤明友)、コマ番号82/144「元禄十年・十一年(1697年・1698年)之形」では水野右衛門太夫(水野忠春)、コマ番号83/144「正徳三年(1713年)之形」では加藤和泉守(加藤嘉矩)、コマ番号84/144「享保六年(1721年)之形」からコマ番号87/144「宝暦三年(1753年)之形」では阿部佐渡守?、コマ番号88/144「天明七年(1787年)之形」では水野和泉守(水野忠任) コマ番号89/144「寛政元年(1789年)之形」では水野左近将監(水野忠鼎)、コマ番号90/144「文化八年(1811年)之形」では水野和泉守(水野忠任)、コマ番号91/144「文化九年(1812年)之形」では水野和泉守、コマ番号92/144「当時(天保九年・1838年)之形」では植村伊勢守(植村家教)、コマ番号93/144「弘化三年(1846年)之形」では水野左近将監(水野忠精)?水野忠精は、弘化2年(1845年)、遠江浜松藩から出羽山形藩に移封されるが、これは父水野忠邦の失脚に伴う左遷である。その後、寺社奉行、若年寄などを歴任し、文久2年(1862年)には老中となった。コマ番号94/144「当時之形」では牧野遠江守(牧野康哉)と描かれています。天明七年(1787年)水野和泉守(水野忠任)から天保九年(1838年)までと弘化三年(1846年)之形の水野左近将監は忠元系水野家(水野忠邦輩出家)になります。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 八之二(天保九年・1838年)」[絵図四つ切左下に植村出羽守(植村家教)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図四つ切左下の上方向中央に植村駿河守(植村家貴)上屋敷と描かれています。家貴は嘉永2年(1849年)6月、外桜田門番に任じられ、嘉永4年(1851年)6月13日には奏者番に任じられた。「東京都立図書館アーカイブ – 大名小路神田橋内内桜田之図(嘉永2[1849]/安政7[1860]改正刊)」の常盤橋御門内に植村出羽守(植村家保)上屋敷が描かれています。植村家保は安政2年(1855年)に桜田門番・竹橋門番に任じられ、12月には御所造営の奉行を担当し、文久元年(1861年)には和田倉門番・馬場先門番に任じられるなど、諸役を歴任した。]

国際日本文化研究センター – (内題)増補改正芝口南西久保愛宕下之圖、(題簽)芝愛宕下繪圖 全、 (袋題)嘉永新刻芝愛宕下繪圖 全(万延2・1861年)」(絵図四つ切左下の上方向中央に牧野遠江守(牧野康哉)上屋敷が描かれています。この後、絵図中央右の有馬知四郎(有馬道純)上屋敷に屋敷替えとなると思います。有馬道純は常盤橋御門内に屋敷替えとなり幕閣として活躍する。)

東京都立図書館アーカイブ – 増補改正芝口南西久保愛宕下之図(万延2[1861]改正)」(牧野遠江守(牧野康哉)上屋敷地に水野出羽守(水野忠寛)が入り、有馬道純屋敷地に牧野遠江守(牧野康哉)が屋敷替えとなっています。水野出羽守(水野忠寛) – 1860年桜田門外の変井伊直弼が暗殺され、さらに直弼によって追放されていた一橋派が幕政に復帰すると、直弼与党であるとして文久2年(1862年)5月29日、全ての役職を辞職に追い込まれ、閏8月20日には養子の忠誠に家督を譲って隠居することとなった。)

東京都立図書館アーカイブ – 増補改正芝口南西久保愛宕下之図(万延2[1861]改正)」(間部作次?・間部詮実の幼名は岩次郎、または巌次郎。長兄が早世したため世子に選ばれた。天保11年(1840年)、将軍徳川家慶に初めて拝謁する。天保12年(1841年)12月、部屋住みの身分のまま従五位下・安房守に叙任する。文久2年(1862年)11月20日に父間部詮勝安政の大獄などを行った責任を追及され、1万石削減の上で強制隠居処分となったため家督を継いだものの、詮実も連座して自宅謹慎させられた。文久3年(1863年)1月12日、謹慎を解かれた。間部詮実はこの後、外桜田(増補改正麹町永田町外桜田絵図・嘉永3[1850]/元治元[1864]改正)に上屋敷地を拝領しています。)    

国立国会図書館デジタルコレクション – [慶応改正御江戸大絵図](慶応3 [1867])」[間部卍治(間部詮道)・外桜田からの屋敷替(「東京都立図書館アーカイブ – 嘉永3[1850]/元治元[1864]改正」絵図四つ切右上)となると思います。間部詮道の幼名は卍治。文久3年(1863年)、先代藩主で兄の間部詮実が死去したため、翌年3月29日にその養嗣子として跡を継ぎ、雁の間詰になった。慶応元年(1865年)2月1日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月25日に従五位下・下総守に叙任された。慶応3年(1867年)3月23日に元服し、正式に詮道と名乗る。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 万寿御江戸絵図(慶応3・1867年)」[間部下総守(間部詮道)]

芝給水所
[東京タワーを間近にみるこの公園、港区芝公園の裏通りともいえる場所にある。小高い丘のようにもみえるが、実は鉄筋コンクリートの構造物の上だ。構造物とは半地下構造になった「配水池」のこと。残念ながら外からは見えないが、新しい水道水が常に循環しながら蓄えられ大規模震災時の備えとなっているそうだ。東京にはこうした緊急用の配水施設が200カ所ほどあり、103万立方メートルにも及ぶ飲料水が確保されている。その中でも、ここは8万立方メートルという大きな貯水能力を持つ、平成14年(2002)に大規模リニューアルされた東京都水道局芝給水所の施設である。
水道水は、浄水場から給水所を経て各事業所や家庭に配水される。東京都には12の浄水場と120余りの給水所があり、芝給水所もその1つではあるが、大変歴史的な1つということができる。
というのも、明治31年(1898)、淀橋浄水場(当時の東京府豊多摩郡淀橋町、現在の新宿区西新宿北新宿)と本郷給水所、芝給水所の稼働をもって、東京の近代水道の歴史が始まったからである。現在見られる芝給水所の古い門は、昭和40年(1965)に廃止された淀橋浄水場の門が移設され、平成14年のリニューアル工事の際に復元されたもの。また、旧芝給水所の煉瓦造りの建物の一部も配水池のコンクリートの壁に残され歴史を伝えている。  (「西新橋通信-芝給水所」より)]

東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切右下・栄町1番地の和蘭国公使館、2~6番地に芝給水所と記述されています。和蘭国公使館が現在の駐日オランダ王国大使館で、芝給水所が現在の芝給水所と芝給水所公園の一部になっています。)

駐日オランダ王国大使館 – Google Map 画像リンク」「手まり坂緑地 – Google Map 画像リンク」「芝給水所公園 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向が芝給水所で、左の水槽棟屋上が芝給水所公園なっています。また、右方向が駐日オランダ王国大使館になります。

カメラ西北西方向が駐日オランダ王国大使館正門で、カメラ北北東方向が手まり坂緑地になります。